聖衆来迎寺(読み)ショウジュライゴウジ

デジタル大辞泉 「聖衆来迎寺」の意味・読み・例文・類語

しょうじゅらいごう‐じ〔シヤウジユライガウ‐〕【聖衆来迎寺】

滋賀県大津市比叡辻にある天台宗の寺。山号は紫雲山。開創は延暦9年(790)、開山は最澄。初め地蔵教院と称したが、長保3年(1001)源信によって現在の寺名に改められ、念仏道場となる。織田信長の焼き打ちの難を免れたため、多数の寺宝を所蔵。

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精選版 日本国語大辞典 「聖衆来迎寺」の意味・読み・例文・類語

しょうじゅらいごう‐じシャウジュライガウ‥【聖衆来迎寺】

  1. 滋賀県大津市下坂本比叡辻町にある天台宗の寺。山号は紫雲山。延暦九年(七九〇)最澄の創建した地蔵教院が起源と伝えられる。長保三年(一〇〇一)源信が琵琶湖の湖水を対象とする水想観を行じたときに、聖衆を伴った阿彌陀仏の来迎の相を感得し、現在名に改めた。以来、念仏道場となる。寺宝に絹本着色「六道絵」、方丈造りの客殿に狩野探幽一派の襖絵がある。来迎寺。

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日本歴史地名大系 「聖衆来迎寺」の解説

聖衆来迎寺
しようじゆらいこうじ

[現在地名]大津市比叡辻二丁目

琵琶湖畔に位置する天台宗寺院。本尊は中央に阿弥陀如来、左に薬師如来、右に釈迦如来の三尊。文献上は志賀来迎寺・坂本来迎寺ともみえる。寺伝では延暦九年(七九〇)最澄が自刻の地蔵菩薩を本尊とした地蔵教院を建立したことに始まるという。延宝六年(一六七八)住持舜英の綴った「来迎寺要書」によると、比叡山横川よかわの恵心僧都源信が長保三年(一〇〇一)に入寺し念仏道場とし、紫雲のなかに弥陀聖衆を感得して紫雲山聖衆来迎寺としたとある。天台宗三門跡の一つ妙法院門跡の管轄下にあり、康永三年(一三四四)七月の亮性法親王庁解(妙法院文書)などに志賀来迎寺とみえる。近世においても同門跡が管領していた(寛永一〇年「寺社事書」同文書)

近江・若狭・越前寺院神社大事典〉

〔中興の祖真玄とその法流〕

永正一六年(一五一九)近江守護六角高頼の五男高信が比叡山に入って修行し、真玄と号し、大永七年(一五二七)当寺を再興した(来迎寺年代記)。そのため真玄を当寺では中興の祖とする。元亀二年(一五七一)織田信長の比叡山焼打ちの際、住持真雄が本尊・什物などを船に乗せ、対岸兵主ひようず神社(現滋賀県中主町)に避難させている。そのあと当寺の近くに築城された坂本さかもと城の城主明智光秀は天正五年(一五七七)に七八石余の仏供料を寄進し、寺を保護している(聖衆来迎寺文書)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「聖衆来迎寺」の意味・わかりやすい解説

聖衆来迎寺
しょうじゅらいこうじ

滋賀県大津市比叡辻(ひえいつじ)にある天台宗の寺。山号は紫雲山(しうんざん)。本尊は阿弥陀(あみだ)・釈迦(しゃか)・薬師の三尊如来(にょらい)。790年(延暦9)伝教(でんぎょう)大師最澄(さいちょう)が地蔵教院を建立したのに始まると伝える。1001年(長保3)恵心僧都(えしんそうず)源信が入寺し、琵琶(びわ)湖で水想観を凝らし、紫雲の中に阿弥陀仏と聖衆の来迎を感得して再興し、現在の寺名に改めたという。来迎図を印刻、配布し結縁した。1570年(元亀1)坂本の合戦において浅井・朝倉方であったが、織田(おだ)方の森可成(よしなり)(森蘭丸(らんまる)の父)を葬ったため、織田信長の比叡山焼打ちを免れ、多くの寺宝が残っている。天正(てんしょう)年間(1573~92)に京都北白川にあった元応国清寺を合併、円頓戒(えんどんかい)授戒の道場とされ、後宇多(ごうだ)・正親町(おおぎまち)・後陽成(ごようぜい)天皇、法親王などが受戒した。寺宝の絹本着色六道絵(ろくどうえ)15幅は国宝。そのほか、木造日光・月光菩薩(がっこうぼさつ)像、絹本着色阿弥陀二十五菩薩来迎図、『法華経(ほけきょう)』8巻など国重要文化財は多い。表門は旧坂本城の表門を移したもの。客殿(国重要文化財)内部の狩野(かのう)派の襖絵(ふすまえ)は有名。また書院には桃山初期の枯山水(かれさんすい)の庭がある。8月16日には寺宝虫干会(むしぼしえ)を行う。

[田村晃祐]


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改訂新版 世界大百科事典 「聖衆来迎寺」の意味・わかりやすい解説

聖衆来迎寺 (しょうじゅらいこうじ)

滋賀県大津市下坂本にある天台宗の寺。紫雲山と号し,来迎寺ともいう。寺伝によれば,790年(延暦9)最澄が地蔵を安置して地蔵教院と号し,1001年(長保3)源信が当院で弥陀聖衆の来迎を感見し,みずから来迎のようすをかき,阿弥陀仏を彫って安置したという。源信は来迎図をも印刻したと伝え,いま乱版木と称しているのがそれだという。1470年(文明2)(一説に1589年(天正17))京都岡崎の元応寺を合併し,戒壇を設け,以後授戒の道場となった。また勅願寺となり,1527年(大永7)真玄が住して大いに栄えた。織田信長の比叡山焼打ちにも災をまぬがれ,今日にいたっている。客殿は1642年(寛永19)の修造で重要文化財。襖絵は狩野探幽,狩野尚信らの筆になる。ほかに仏像,画像,宸翰など多数の文化財があるが,国宝絹本著色《六道絵》は世に名高い。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「聖衆来迎寺」の意味・わかりやすい解説

聖衆来迎寺
しょうじゅらいごうじ

来迎寺ともいう。滋賀県大津市にある天台宗の寺。山号は紫雲山。延暦9 (790) 年最澄が自作の地蔵菩薩像を安置した地蔵院がもとで,長保3 (1001) 年源信がここで聖衆来迎を感得したことから,堂宇を興し,来迎のありさまを彩画,また阿弥陀来迎像を造り,来迎寺と名を改めた。文明2 (1470) 年京都岡崎の元応寺を併合して,戒壇を設けて以来繁栄し,正親町,後陽成の2帝をはじめ,受戒する者が多かった。災禍を免れたので数多くの寺宝を蔵していることでも有名。なかでも『六道絵』 (鎌倉時代,15幅) は国宝。主として『往生要集』の内容を典拠に,等活地獄,黒縄 (こくじょう) 地獄,衆合地獄,阿鼻 (あび) 地獄,餓鬼道,畜生道,阿修羅道,人道不浄相,人道苦相一,人道苦相二,人道無常相,天道,閻魔王庁,譬喩経所説 (ひゆきょうしょせつ) 念仏功徳,優婆塞戒経所説 (うばそくかいしょせつ) 念仏功徳の 15図より構成されている。

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