琵琶湖畔に位置する天台宗寺院。本尊は中央に阿弥陀如来、左に薬師如来、右に釈迦如来の三尊。文献上は志賀来迎寺・坂本来迎寺ともみえる。寺伝では延暦九年(七九〇)最澄が自刻の地蔵菩薩を本尊とした地蔵教院を建立したことに始まるという。延宝六年(一六七八)住持舜英の綴った「来迎寺要書」によると、比叡山
〈近江・若狭・越前寺院神社大事典〉
永正一六年(一五一九)近江守護六角高頼の五男高信が比叡山に入って修行し、真玄と号し、大永七年(一五二七)当寺を再興した(来迎寺年代記)。そのため真玄を当寺では中興の祖とする。元亀二年(一五七一)織田信長の比叡山焼打ちの際、住持真雄が本尊・什物などを船に乗せ、対岸の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
滋賀県大津市比叡辻(ひえいつじ)にある天台宗の寺。山号は紫雲山(しうんざん)。本尊は阿弥陀(あみだ)・釈迦(しゃか)・薬師の三尊如来(にょらい)。790年(延暦9)伝教(でんぎょう)大師最澄(さいちょう)が地蔵教院を建立したのに始まると伝える。1001年(長保3)恵心僧都(えしんそうず)源信が入寺し、琵琶(びわ)湖で水想観を凝らし、紫雲の中に阿弥陀仏と聖衆の来迎を感得して再興し、現在の寺名に改めたという。来迎図を印刻、配布し結縁した。1570年(元亀1)坂本の合戦において浅井・朝倉方であったが、織田(おだ)方の森可成(よしなり)(森蘭丸(らんまる)の父)を葬ったため、織田信長の比叡山焼打ちを免れ、多くの寺宝が残っている。天正(てんしょう)年間(1573~92)に京都北白川にあった元応国清寺を合併、円頓戒(えんどんかい)授戒の道場とされ、後宇多(ごうだ)・正親町(おおぎまち)・後陽成(ごようぜい)天皇、法親王などが受戒した。寺宝の絹本着色六道絵(ろくどうえ)15幅は国宝。そのほか、木造日光・月光菩薩(がっこうぼさつ)像、絹本着色阿弥陀二十五菩薩来迎図、『法華経(ほけきょう)』8巻など国重要文化財は多い。表門は旧坂本城の表門を移したもの。客殿(国重要文化財)内部の狩野(かのう)派の襖絵(ふすまえ)は有名。また書院には桃山初期の枯山水(かれさんすい)の庭がある。8月16日には寺宝虫干会(むしぼしえ)を行う。
[田村晃祐]
滋賀県大津市下坂本にある天台宗の寺。紫雲山と号し,来迎寺ともいう。寺伝によれば,790年(延暦9)最澄が地蔵を安置して地蔵教院と号し,1001年(長保3)源信が当院で弥陀聖衆の来迎を感見し,みずから来迎のようすをかき,阿弥陀仏を彫って安置したという。源信は来迎図をも印刻したと伝え,いま乱版木と称しているのがそれだという。1470年(文明2)(一説に1589年(天正17))京都岡崎の元応寺を合併し,戒壇を設け,以後授戒の道場となった。また勅願寺となり,1527年(大永7)真玄が住して大いに栄えた。織田信長の比叡山焼打ちにも災をまぬがれ,今日にいたっている。客殿は1642年(寛永19)の修造で重要文化財。襖絵は狩野探幽,狩野尚信らの筆になる。ほかに仏像,画像,宸翰など多数の文化財があるが,国宝絹本著色《六道絵》は世に名高い。
執筆者:伊藤 唯真
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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