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聖衆来迎寺 しょうじゅらいごうじ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

聖衆来迎寺
しょうじゅらいごうじ

来迎寺ともいう。滋賀県大津市にある天台宗の寺。山号紫雲山延暦9 (790) 年最澄が自作の地蔵菩薩像を安置した地蔵院がもとで,長保3 (1001) 年源信がここで聖衆来迎を感得したことから,堂宇を興し,来迎のありさまを彩画,また阿弥陀来迎像を造り,来迎寺と名を改めた。文明2 (1470) 年京都岡崎の元応寺を併合して,戒壇を設けて以来繁栄し,正親町,後陽成の2帝をはじめ,受戒する者が多かった。災禍を免れたので数多くの寺宝を蔵していることでも有名。なかでも『六道絵』 (鎌倉時代,15幅) は国宝。主として『往生要集』の内容を典拠に,等活地獄,黒縄 (こくじょう) 地獄,衆合地獄阿鼻 (あび) 地獄,餓鬼道畜生道,阿修羅道,人道不浄相,人道苦相一,人道苦相二,人道無常相,天道,閻魔王庁,譬喩経所説 (ひゆきょうしょせつ) 念仏功徳,優婆塞戒経所説 (うばそくかいしょせつ) 念仏功徳の 15図より構成されている。

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デジタル大辞泉の解説

しょうじゅらいごう‐じ〔シヤウジユライガウ‐〕【聖衆来迎寺】

滋賀県大津市比叡辻にある天台宗の寺。山号は紫雲山。開創は延暦9年(790)、開山最澄。初め地蔵教院と称したが、長保3年(1001)源信によって現在の寺名に改められ、念仏道場となる。織田信長の焼き打ちの難を免れたため、多数の寺宝を所蔵

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世界大百科事典 第2版の解説

しょうじゅらいこうじ【聖衆来迎寺】

滋賀県大津市下坂本にある天台宗の寺。紫雲山と号し,来迎寺ともいう。寺伝によれば,790年(延暦9)最澄が地蔵を安置して地蔵教院と号し,1001年(長保3)源信が当院で弥陀聖衆の来迎を感見し,みずから来迎のようすをかき,阿弥陀仏を彫って安置したという。源信は来迎図をも印刻したと伝え,いま乱版木と称しているのがそれだという。1470年(文明2)(一説に1589年(天正17))京都岡崎の元応寺を合併し,戒壇を設け,以後授戒の道場となった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

聖衆来迎寺
しょうじゅらいこうじ

滋賀県大津市比叡辻(ひえいつじ)にある天台宗の寺。山号は紫雲山(しうんざん)。本尊は阿弥陀(あみだ)・釈迦(しゃか)・薬師の三尊如来(にょらい)。790年(延暦9)伝教(でんぎょう)大師最澄(さいちょう)が地蔵教院を建立したのに始まると伝える。1001年(長保3)恵心僧都(えしんそうず)源信が入寺し、琵琶(びわ)湖で水想観を凝らし、紫雲の中に阿弥陀仏と聖衆の来迎を感得して再興し、現在の寺名に改めたという。来迎図を印刻、配布し結縁した。1570年(元亀1)坂本の合戦において浅井・朝倉方であったが、織田(おだ)方の森可成(よしなり)(森蘭丸(らんまる)の父)を葬ったため、織田信長の比叡山焼打ちを免れ、多くの寺宝が残っている。天正(てんしょう)年間(1573~92)に京都北白川にあった元応国清寺を合併、円頓戒(えんどんかい)授戒の道場とされ、後宇多(ごうだ)・正親町(おおぎまち)・後陽成(ごようぜい)天皇、法親王などが受戒した。寺宝の絹本着色六道絵(ろくどうえ)15幅は国宝。そのほか、木造日光・月光菩薩(がっこうぼさつ)像、絹本着色阿弥陀二十五菩薩来迎図、『法華経(ほけきょう)』8巻など国重要文化財は多い。表門は旧坂本城の表門を移したもの。客殿(国重要文化財)内部の狩野(かのう)派の襖絵(ふすまえ)は有名。また書院には桃山初期の枯山水(かれさんすい)の庭がある。8月16日には寺宝虫干会(むしぼしえ)を行う。[田村晃祐]

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