能島城跡(読み)のしまじようあと

日本歴史地名大系 「能島城跡」の解説

能島城跡
のしまじようあと

[現在地名]宮窪町宮窪

能島城跡(国指定史跡)は、おお島と伯方はかた島の中間にある島に隣接するほぼ三角形の能島(標高三一メートル、面積約二・五ヘクタール)と属島の鯛崎たいざき(標高二二メートル、面積約〇・七ヘクタール)にまたがって位置し、南北朝から室町・戦国期にかけて三島村上氏の一人、能島村上氏(野島氏)居城した典型的な海賊城跡である。能島の位置する大島と伯方島の海峡は、芸予諸島中、西国から畿内に通ずる内海の重要な三つの水路の一つで、しかも中央に位置して最短の航路であったところから、帆船時代には今日の来島くるしま海峡以上に重要な水路であった。また、能島と鵜島との間の荒神こうじん瀬戸および能島と大島との間の宮窪みやくぼ瀬戸は、干満時の潮流激しく、潮流に逆らっての帆船の航行ははなはだ困難で、能島は天然の要害を兼ね備えた城塞であった。

能島は、江戸時代以降無人島であったため、今日に至るも城塞の遺構がよく残っている。海上から眺めても島は三段になっていて、戦国時代の城郭の形式をみることができる。能島には、いわゆる本丸・二の丸・三の丸・出丸などの跡が歴然と残っている。鯛崎島は、能島古図によると、当時は橋によって連絡されていたようであるが、頂上は、東西約二二メートル、南北約五〇メートルの長楕円形の平地になっており、能島城の出丸または見張場であったと思われる。

昭和一三年(一九三八)に城跡から発掘された遺物の中には、炭塊・焼けた米塊・軽石・銅製門扉乳金具・碁石・鋳銭・陶器類の破片・鉱石・金糞・鉄鏃・鉛の延棒・炮禄団ほうろくだまの破片などがみられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「能島城跡」の解説

のしまじょうあと【能島城跡】


愛媛県今治(いまばり)市宮窪町にある城跡。芸予海峡の荒神瀬戸に所在し、南北朝時代に村上義弘がこれに拠ったと伝えられ、以降、累代の居城であり伊予水軍の根拠地となったことから、1953年(昭和28)に国の史跡に指定された。城は能島の頂上を本丸となし、約3間(5.45m)下方の東、西、南の三面をめぐって二の丸がある。三の丸は二の丸の西に接して鍵形の平坦地をなし、西の端と東北端に出丸があって全面が矢竹で覆われており、東北の出丸は矢櫃(やびつ)といい、矢を作って保存していた所である。能島の南西には海峡を隔てて鯛崎島があり、その頂上も出丸として使用された。南部海岸の岩礁上には多数の円柱穴の跡があるが、これらは桟橋などの跡と認められ、小規模のものは北部海岸に2ヵ所、矢櫃の海岸に1ヵ所、北東岸に2ヵ所、さらに西岸の平地の砂浜にも柱根が埋没しているのが見られた。こうした臨海桟橋式築城法は海陸合体の城跡として貴重で、学術的な価値が高いとされている。近くの公民館2階の村上水軍博物館に能島出土品などを展示している。JR予讃線今治駅から大島バス「宮窪桟橋」から船(海上タクシー)で約5分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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