当寺の創建事情については、天正一五年(一五八七)事実上の創建者である太原崇孚(雪斎)の三十三回忌に際して、弟子の東谷宗杲が読んだ護国禅師雪斎遠諱香語(写、臨済寺所蔵)に記されている。それによると、天文五年(一五三六)三月一七日に死去した今川氏輝を、雪斎が氏輝の祖母北川殿(今川義忠室、北条早雲姉)の旧宅であったという縁で
天文一〇年に琴渓承舜の十三回忌、雪斎生母の二十一日忌、氏輝の七回忌などが明叔によって(「明叔録」禅昌寺蔵)、同一七年には氏輝の十三回忌が大休によって(円満本光国師見桃録)、永禄三年(一五六〇)には義元の葬儀が東谷宗杲らによって執り行われている(儀雲和尚法語)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
静岡市葵(あおい)区大岩にある臨済宗妙心寺派の寺。大竜山(だいりゅうざん)と号する。本尊は阿弥陀如来(あみだにょらい)。享禄(きょうろく)年間(1528~32)今川義元(よしもと)が建立、初め善得院と称したが、1536年(天文5)住職雪斎太原(せっさいたいげん)は後奈良(ごなら)天皇の師にあたる大休宗休(だいきゅうそうきゅう)を勧請(かんじょう)開山として臨済寺と改称し、天皇の勅願寺となった。賤機(しずはた)山の山麓(さんろく)にあり、徳川家康が幼少時に今川家の人質として過ごし、雪斎の教育を受けた寺として名高い。天正(てんしょう)年間(1573~92)兵火により焼失するも家康によって再興された。方丈庭園は江戸時代作庭の三段池泉回遊式庭園で国名勝に指定されている。寺宝に絹本着色大休和尚(おしょう)画像、千鳥六曲屏風(びょうぶ)、鉄山和尚語録などが県重要文化財に指定されている。
[菅沼 晃]
静岡市葵区大岩にある臨済宗妙心寺派の寺。山号は大竜山。前身は今川義元創建の善得院で,1536年(天文5)守護今川氏輝が同院で逝去すると墓所を設けて寺に改め,氏輝の法名臨済寺殿用山玄公をもって寺号とした。初代住持に今川氏重臣庵原氏出身の太原崇孚(たいげんすうふ)が招かれたが,1548年(天文17)太原は師の大休宗休(妙心寺第25世住持)を開山に勧請し,みずからは2世住持となった。後奈良天皇によって勅願所とされ,今川氏は多くの寺領を寄進し,1534年には駿河・遠江に9ヵ所を確認できる。次いで武田信玄も保護し,1568年(永禄11)に324貫文の寺領を安堵している。竹千代と称した幼年期の徳川家康はこの寺で養育されたが,のち1582年(天正10)家康駿河入りのとき寺は兵火にあい,正親町(おおぎまち)天皇の皇子誠仁親王が再興を命じている。天文(1532-55)末年ごろに9塔頭(たつちゆう)44末寺を数えたが,近世期には朱印寺領100石,末寺53を有する寺勢を誇った。現在,庭園は国の名勝に指定され,《大休和尚画像》《鉄山和尚語録》や古文書を蔵し,専門道場(僧堂)では雲水が修業にはげんでいる。
執筆者:竹貫 元勝
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…山頂には賤機山公園があり,静岡市街,日本平,富士山,伊豆半島などを望むことができる。東麓には今川義元の開山した臨済寺,南麓に賤機山古墳,浅間(せんげん)神社がある。賤機山の別名〈賤ヶ丘〉は静岡の地名の由来となった。…
…のち京都建仁寺の竜堂常庵に参学し,妙心寺霊雲院の大休宗休の法を継いで弟子となった。1536年(天文5)今川義元が兄氏輝の菩提のために臨済寺(静岡市)を開創すると,その開山に師の大休を招き,みずからは2世として住持に就き,善得寺,庵原郡清見寺の住持をも兼ねた。太原は今川氏の重臣の家に生まれたことや義元とともに寺院で修行したこともあって,同氏の執事として活躍し,相模,伊豆,三河へと出陣した。…
※「臨済寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
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