船岡山(読み)フナオカヤマ

デジタル大辞泉 「船岡山」の意味・読み・例文・類語

ふなおか‐やま〔ふなをか‐〕【船岡山】

京都市北区にある小丘陵。標高112メートルで、船を伏せた形をしている。平安時代は貴族の行楽地、のち火葬場・刑場。また戦略上の要地とされ、応仁の乱の西軍の拠点となった。織田信長をまつる建勲けんくん神社がある。船岡。

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精選版 日本国語大辞典 「船岡山」の意味・読み・例文・類語

ふなおか‐やまふなをか‥【船岡山】

  1. [ 一 ] 京都市北区紫野にある丘陵。標高一一二メートル。古来清浄の地とされ、平安期には貴族の宴遊として子の日遊びや若菜摘みなどが行なわれた。また、平安初期には斎場となり、後に北および西側が葬送地となった。応仁・永正の兵乱には要害地として争奪戦が行なわれた。現在は公園となり、また建勲神社がある。国史跡。船岡。
    1. [初出の実例]「其夜、香隆寺の艮(うしとら)、蓮台野の奥、舟岳(ヲカ)山に納め奉る」(出典:屋代本平家(13C前)一)
  2. [ 二 ] 島根県雲南市にある山。船山。
    1. [初出の実例]「船岡山(ふなおかやま) 郡家の東北のかた一十九里一百八十歩なり」(出典:出雲風土記(733)大原)

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日本歴史地名大系 「船岡山」の解説

船岡山
ふなおかやま

むらさきの野の西にある。「山州名跡志」に「形類船」とあるように、山形から名付けられたという。山頂には太古の祭祀遺跡と推定される磐座が今も残る。平安京の造都にあたっては船岡山が玄武の山とされ、都の中央を南北に走る朱雀すざく大路の基点とされたともいわれる。

正暦五年(九九四)疫病が流行し、疫神を船岡山に祀って御霊会が修されたが、「日本紀略」六月二七日条に

<資料は省略されています>

とあるが、この御霊会が朝議によってではなく民間から起こったとし、船岡山の民間にもつ意味をうかがわせる。

船岡山は景勝の地で、紫野とともに遊行の地であった。円融上皇は寛和元年(九八五)二月一三日紫野での日の遊びを催し(日本紀略)、歌人たちも加わった。


船岡山
ふなおかやま

[現在地名]小千谷市船岡町

旧市街地のほぼ中央にある小丘。東方は信濃川を隔てて八海はつかい山などを望み、北西長岡を隔てて弥彦やひこ山方面を眺望する。近世末期に領内廻村の郡代がここで一日の閑を求めたという。戊辰戦争後、町内各寺院に分散埋葬されていた戦死者を山頂に合同改葬する議があり、土地・工事費などをすべて篤志寄付に求めて、明治四年(一八七一)にまず長州藩士の墓地が完成。その後各藩の墓をここにまとめる計画が長い間なされていたが、同四一年に県からも若干の費用支出があって現在の姿になった。

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国指定史跡ガイド 「船岡山」の解説

ふなおかやま【船岡山】


京都府京都市北区紫野北舟町にある丘陵。大徳寺周辺一帯の紫野に位置する、標高112m、東西200m、南北100mにわたる丘陵で、地形が船の形に似ていることから、古来、船岡と呼ばれてきた。平安京造営の際には北の基点となり、山の真南に大極殿が建てられて都の中心軸として朱雀大路(すざくおおじ)が造られたという。平安時代の王侯貴族からは散策の地として愛され、若菜摘()みやわらび採りに興じる清遊の地として多くの和歌が残されており、清少納言も『枕草子』に「岡は船岡……」と讃えている。平安時代中期以降は付近一帯が葬送の地となったようで、山腹に石仏が散在するのはその名残ではないかといわれる。中世になると戦略上の要所としてこの山に山城が築かれ、応仁の乱では西軍がこの山を陣地としたため、その後、船岡山周辺一帯を「西陣」と呼ぶようになった。中腹に300mにわたって現存する空堀は、中世の山城の痕跡である。山の南東部分にある建勲(たけいさお)神社の祭神は織田信長で、そもそも本能寺の変の後に豊臣秀吉が正親町(おおぎまち)天皇の勅許を受け、船岡山を主君である織田信長の廟堂と定めていた。このことから自然がそのまま残され、京都盆地特有の樹相がよく保たれて樹種もきわめて多く、帰化植物がほとんど入りこんでいない京都市内でも数少ない貴重な森になっている。1968年(昭和43)に国の史跡に指定され、北西部分は船岡山公園として開設されて市民の憩いの場となっている。JR東海道新幹線ほか京都駅から市バス「千本北大路」下車、徒歩約4分。

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改訂新版 世界大百科事典 「船岡山」の意味・わかりやすい解説

船岡山 (ふなおかやま)

京都市北区紫野にある山。標高112mの古生層からなる孤立丘陵で,《都名所図会》など近世の地誌類によれば,山名は形状が舟に似ることによるという。平安京の中央を南北に貫く朱雀大路の北方延長線上にあり,平安京の都市計画で基点になった山と考えられている。四神のうち北をつかさどる玄武になぞらえられたこの山は,《枕草子》に〈岡は船岡〉と記され,平安貴族の遊楽の地であるとともに修法・葬送の地でもあった。985年(寛和1)の円融院の遊宴はよく知られ(《今昔物語集》),〈舟岡に若菜摘みつつ君がため子日(ねのひ)の松の千代を送らむ〉(《元輔集》)など多くの歌に詠まれた歌枕でもある。また北方から洛中に入る軍事上の要衝で,応仁の乱に際しては1468年(応仁2)ここに拠った西軍が東軍に攻め落とされ(《応仁記》),1511年(永正8)には入京を図った細川澄元が船岡山の合戦で敗れた(《細川両家記》)。現在,船岡山は国の史跡とされ,山上には明治以来,織田信長をまつる建勲(たけいさお)神社があり,山の北に大徳寺,西に上品蓮台寺などがある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「船岡山」の意味・わかりやすい解説

船岡山
ふなおかやま

京都市北区の南部にある山。国指定史跡。標高112メートルの小丘陵で、その名の示すように船を伏せたような山容である。平安時代都人の遊宴の地であり、また葬送の地でもあった。応仁(おうにん)の乱(1467~1477)の際には西軍の山名宗全(やまなそうぜん)の砦(とりで)に用いられた。山上からは市街を眺望でき、北西部は市民公園となり、1880年(明治13)織田信長を祀(まつ)る建勲神社(けんくんじんじゃ)が置かれた。

織田武雄

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「船岡山」の意味・わかりやすい解説

船岡山
ふなおかやま

京都市北区の南部にある小丘陵。地名は船を伏せたような形からきている。 1968年史跡に指定。北大路の南,千本通の東に位置。標高 112m。平安時代の貴族の行楽地。応仁の乱では西軍の拠点となった。現在は船岡山公園があり,公園に隣接して織田信長をまつる建勲神社がある。

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世界大百科事典(旧版)内の船岡山の言及

【火葬】より

…また疫病の流行や飢饉に際して,河原や荒野に遺棄された死体を念仏僧などが火葬にする風があった。この時期,京都では鳥辺山,船岡山などが民間の火葬地として知られていた。また平安時代中期以降,遺骨を寺域に移す風がおこり,三昧堂,廟堂などが建てられ,さらに火葬骨を納めた五輪塔など石造墓塔が立てられ,後世の寺墓のおこりもみられるようになった。…

※「船岡山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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