ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
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出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
江戸前期に来日した中国福建省泉州の仏師。字(あざな)は石甫(せきほ)または印官。明(みん)僧の隠元隆琦(いんげんりゅうき)が宇治に黄檗山(おうばくさん)万福寺を造営の際に招き、1659年(万治2)来日した。長崎の福済寺、興福寺で造仏し、1663年(寛文3)ごろから万福寺仏殿の釈迦(しゃか)、阿難(あなん)、迦葉(かしょう)、十八羅漢をはじめ、同寺の彫像のほとんどを手がけた。作風は明末の癖が強く、目新しさから仏師間にも一時広まったが、大きな影響はなかった。1664年にいったん帰国し、1670年9月ふたたび来日したが、入国を許されず、同年11月3日長崎で没した。崇福寺に墓がある。
[佐藤昭夫]
… この間,1654年(承応3),僧隠元が弟子とともに来日し,幕府の庇護を得て61年(寛文1)宇治に万福寺を建立,黄檗(おうばく)宗の拠点としたことは,明代末期の仏教美術を日本に伝える上での契機となった(黄檗美術)。万福寺では渡来仏師范道生により新奇な仏像が制作され,日本の仏師らにも影響を与えた。江戸の松雲元慶による五百羅漢寺のための造像(1695ころ)には,この新様式と伝統様式とのすぐれた融合が見られる。…
…黄檗建築の様式は,各地の黄檗系寺院にひろまったが,江戸時代の建築全般に影響を与えるまでには至らなかった。これら黄檗寺院には,中国人仏師范道生による木彫の韋駄天像や布袋・羅漢像などが置かれたが,濃厚な色やユーモラスな表情に,中国民衆の宗教感情を反映させたこの明末仏像の作風もまた,日本の仏像彫刻に刺激を与えた。松雲元慶の五百羅漢像(1695)は黄檗彫刻の影響によるすぐれた作例であり,円空や木喰明満の鉈彫にも,黄檗彫刻の要素が認められる。…
※「范道生」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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