出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
埋葬施設や喪葬儀礼を簡素なものとすること。日本古代の葬制の流れについて考えてみると,薄葬思想が濃厚であったかと思われる時期がいくつかある。まず第1に,雄略朝から5世紀末の時期である。倭国の版図が最大となり,大王号を称するに至った倭王武(雄略天皇)の山陵をどこに比定するかはさて置いても,5世紀後半の大王陵と目されるものは,その前後の大王陵と比較すると規模が小さく,古墳造営について,なんらかの規制が存在したと考えられる。第2は,推古朝前後である。この時期の大王陵は,従来の前方後円墳から方墳へと変化した。それとともに,7世紀に入ると,畿内およびその周辺地域では,大阪府柏原市の平尾山千塚や兵庫県宝塚市の長尾山古墳群など,ごく一部の例外を除いて,6世紀後半には各地で爆発的に築造されていた群集墳が,急速に終焉をむかえる。こうした事実は,推古朝前後における造墓規制の存在を示している。第3は,646年(大化2)3月に公布された詔,いわゆる大化薄葬令である。大化薄葬令については,その実質的な効力を疑問視する論考が多いが,この詔はあくまで,王以下から庶民に至るまでの身分秩序の確立を目ざしたものとみなすべきだろう。石室(石槨)や墳丘規模に関する数値は上限を示したものであり,正しく合致する例が存在しないとの理由で,薄葬令の効力を疑問視することはできない。大化薄葬令は,畿内とそのごく周辺地域に限って,施行されたと考えられる。飛鳥の南西の地域に,天武・持統合葬陵や高松塚古墳などの終末期古墳が散在する事実,また,7世紀後半には,天皇・皇后・皇子女その他に限って,殯(もがり)が営まれている事実は,これらの人々が薄葬令の対象外であったことを示している。第4は,天武朝末年からの仏式葬儀の導入,および8世紀初頭の火葬の採用である。この仏式葬儀の導入と火葬の採用は,実質的に,薄葬を著しく促したのであり,殯の期間も短縮化され,形骸化する。
執筆者:和田 萃
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