江戸中期の尊王論者。名は直明。もと赤穂(あこう)藩主浅野長矩(ながのり)の江戸家老の子というが、その出自には諸説がある。1735年(享保20)京都に入って学を修め、のち八十宮(やそみや)内親王の家司(けいし)となり皇学所教授を兼ねる。尊王論を唱導し正親町公積(おおぎまちきんつむ)らと親交する。竹内式部(たけのうちしきぶ)らの宝暦(ほうれき)事件(1758)により京都を出奔し、数年諸国を放浪して江戸に入る。山県大弐(やまがただいに)のもとに身を寄せ尊王反幕を説き、甲府城や江戸城攻略の方法を論じるなど過激な意見を述べる。大弐らとともに謀反の陰謀ありと訴えられ(明和(めいわ)事件)、獄門の刑に処せらる。48歳。明治になって正四位を贈られた。
[南 和男]
江戸中期の尊王論者。伝は未詳であるが,父は赤穂浅野家の家老藤井又左衛門宗茂で,浅野家が除封になったのち越中射水郡小杉村で生まれたという。16歳で京都に出,地下の諸大夫藤井大和守忠義の養子となり,皇学所の教授となった。しかし宝暦事件で処罰された竹内式部と親交があったため,1758年(宝暦8)名を変えて逃亡し,甲斐を経て江戸に出,山県大弐と交わり,その家に寄宿した。ところが,大弐が上野小幡藩の内紛にからんで,門人らから謀反を企てていると幕府に密告され,処罰されたとき(明和事件),連座して幕府の糺問をうけた。告発されたような事実はなかったが,兵学を談論した際,江戸城攻略の話などしたのは不敬であり,不届き至極であるとして獄門を申しつけられた。右門はその結審を待たず,獄中で病死した。
執筆者:田原 嗣郎
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(宇田敏彦)
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1720~67.8.22
江戸中期の勤王家。父はもと播磨国赤穂藩士の藤井又左衛門。名は吉太郎のち直明。越中国生れ。16歳のとき郷里を出奔して上京し,諸大夫藤井大和守忠義の養子となり家督を継ぐ。公卿と交際し軍旅の事を教授。宝暦事件で竹内式部が捕らえられると京都を出奔して右門と名のり,江戸で山県大弐(やまがただいに)宅に寄宿。1766年(明和3)明和事件の際に大弐とともに捕らえられ,翌年兵書雑談の内容に不敬があったとして打首・獄門となった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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※「藤井右門」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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