藤井右門(読み)フジイウモン

デジタル大辞泉 「藤井右門」の意味・読み・例文・類語

ふじい‐うもん〔ふぢゐ‐〕【藤井右門】

[1720~1767]江戸中期の尊王論者。越中の人。名は直明。宝暦事件に連座して逃亡。のち、明和事件山県大弐とともに処刑された。

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精選版 日本国語大辞典 「藤井右門」の意味・読み・例文・類語

ふじい‐うもん【藤井右門】

  1. 江戸中期の兵学者・尊王家。越中国富山県)の人。尊王論を説き、宝暦事件に連座して江戸に逃亡。明和事件で山県大弐とともに鈴ケ森獄門に処せられた。享保五~明和四年(一七二〇‐六七

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤井右門」の意味・わかりやすい解説

藤井右門
ふじいうもん
(1720―1767)

江戸中期の尊王論者。名は直明。もと赤穂(あこう)藩主浅野長矩(ながのり)の江戸家老の子というが、その出自には諸説がある。1735年(享保20)京都に入って学を修め、のち八十宮(やそみや)内親王の家司(けいし)となり皇学所教授を兼ねる。尊王論を唱導し正親町公積(おおぎまちきんつむ)らと親交する。竹内式部(たけのうちしきぶ)らの宝暦(ほうれき)事件(1758)により京都を出奔し、数年諸国を放浪して江戸に入る。山県大弐(やまがただいに)のもとに身を寄せ尊王反幕を説き、甲府城や江戸城攻略の方法を論じるなど過激な意見を述べる。大弐らとともに謀反陰謀ありと訴えられ(明和(めいわ)事件)、獄門の刑に処せらる。48歳。明治になって正四位を贈られた。

[南 和男]

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改訂新版 世界大百科事典 「藤井右門」の意味・わかりやすい解説

藤井右門 (ふじいうもん)
生没年:1720-67(享保5-明和4)

江戸中期の尊王論者。伝は未詳であるが,父は赤穂浅野家の家老藤井又左衛門宗茂で,浅野家が除封になったのち越中射水郡小杉村で生まれたという。16歳で京都に出,地下の諸大夫藤井大和守忠義の養子となり,皇学所の教授となった。しかし宝暦事件で処罰された竹内式部と親交があったため,1758年(宝暦8)名を変えて逃亡し,甲斐を経て江戸に出,山県大弐と交わり,その家に寄宿した。ところが,大弐が上野小幡藩の内紛にからんで,門人らから謀反を企てていると幕府に密告され,処罰されたとき(明和事件),連座して幕府の糺問をうけた。告発されたような事実はなかったが,兵学を談論した際,江戸城攻略の話などしたのは不敬であり,不届き至極であるとして獄門を申しつけられた。右門はその結審を待たず,獄中で病死した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤井右門」の意味・わかりやすい解説

藤井右門
ふじいうもん

[生]享保5(1720).越中
[没]明和4(1767).8.22. 江戸
江戸時代中期の儒学者,尊王論者。幼名,吉太郎。名,直明。通称,右門。浅野長矩の遺臣藤井宗茂の子。享保 20 (1735) 年京都に出て伊藤紹述に学び,竹内式部と交わった。元文3 (38) 年藤井忠義の養子となり,従五位,大和守に任じられ,皇学所教授となった。宝暦9 (59) 年宝暦事件で竹内式部に連座し,江戸幕府の追求を逃れて潜伏し,江戸に出て山県大弐の家に身を寄せた。明和4 (67) 年明和事件に際し捕えられ,大弐とともに鈴ヶ森でさらし首になった。

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朝日日本歴史人物事典 「藤井右門」の解説

藤井右門

没年:明和4.8.22(1767.9.14)
生年:享保5(1720)
江戸中期の武士。名は初め吉太郎,のち直明。越中国射水郡小杉村(富山県氷見市)に元赤穂浅野家の江戸家老藤井又左衛門の長子として生まれ,京都の藤井忠義の養子となって名を直明と改めた。皇女八十宮に仕え,宝暦8(1758)年,同志の尊王家竹内式部が事破れて捕らわれる(宝暦事件)と,京を出奔して名を右門と改め,江戸に出て山県大弐の塾に入門した。以後大弐の所説に心酔して尊皇斥覇を唱え,町医者の宮沢準曹らと時事を談論したが,明和3(1766)年12月災いがわが身におよぶのを怖れた準曹の訴えで,大弐ともども謀反人として捕らえられ,いわゆる明和事件の首謀者として打ち首,獄門となった。

(宇田敏彦)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「藤井右門」の解説

藤井右門
ふじいうもん

1720~67.8.22

江戸中期の勤王家。父はもと播磨国赤穂藩士の藤井又左衛門。名は吉太郎のち直明。越中国生れ。16歳のとき郷里を出奔して上京し,諸大夫藤井大和守忠義の養子となり家督を継ぐ。公卿と交際し軍旅の事を教授。宝暦事件で竹内式部が捕らえられると京都を出奔して右門と名のり,江戸で山県大弐(やまがただいに)宅に寄宿。1766年(明和3)明和事件の際に大弐とともに捕らえられ,翌年兵書雑談の内容に不敬があったとして打首・獄門となった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤井右門」の解説

藤井右門 ふじい-うもん

1720-1767 江戸時代中期の武士,尊王家。
享保(きょうほう)5年生まれ。八十宮(やそみや)内親王の家司(けいし)となり,皇学所教授をかねた。竹内式部(たけのうち-しきぶ)らの宝暦事件で京都を出奔。のち江戸の山県大弐(やまがた-だいに)の明和事件に関係して捕らえられ,明和4年8月22日処刑された。48歳。名は直明。幼名は吉太郎。

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旺文社日本史事典 三訂版 「藤井右門」の解説

藤井右門
ふじいうもん

1720〜67
江戸中期の尊王論者
竹内式部らと交わり,公家に尊王思想を説いた。1758年宝暦事件に連坐して京都から逃亡。江戸に出て山県大弐 (やまがただいに) と交わり,時事を談じ,尊王反幕を説いたため,'66年明和事件で大弐とともに捕らえられ,翌年獄門の刑に処せられた。

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世界大百科事典(旧版)内の藤井右門の言及

【明和事件】より

…江戸中期に山県大弐藤井右門らが処罰された事件。山県大弐は儒学,兵学の塾を江戸日本橋に開き,上野小幡藩の家老吉田玄蕃と親交があった。…

※「藤井右門」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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