東三条殿(読み)ひがしさんじょうどの

改訂新版 世界大百科事典 「東三条殿」の意味・わかりやすい解説

東三条殿 (ひがしさんじょうどの)

平安時代の邸宅東三条院ともいう。藤原北家発展の基礎をきずいた良房の邸宅にはじまり,忠平を経て兼家へ伝えられた。兼家がその西対を清涼殿に似せてつくり世の非難を浴びた話は有名。大内裏の東南,二条大路の南,西洞院大路の東にあり,東西1町,南北2町の地を占めた。兼家のあと東三条院詮子(兼家女,円融天皇女御)を経て道長が所有し,一条,三条両天皇の行幸を迎えている。道長から頼通へ伝えられたが,東三条殿とは別に道長は土御門(つちみかど)殿を,頼通は高陽(かや)院の経営に力をいれた。頼通からその女寛子(後冷泉天皇后)を経て師実へ伝えられ,師実からその嫡流子孫師通-忠実-忠通-基実の歴代の摂関家本邸として伝わり,公私の重要行事がこの邸で行われ,また近衛,後白河両天皇の里内裏になった。東宮憲仁親王の御所に用いられていた1166年(仁安1)焼失したのちは再建されなかった。師実の大臣大饗(だいきよう)が東三条殿で行われた1060年(康平3)以降,焼失までの約1世紀にわたって被災することなく維持され,その期間の邸内建物の配置規模多く資料で復元することができ,平安時代後半期の上層公家邸宅の規模とつくりを明確に知ることができる。
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家とインテリアの用語がわかる辞典 「東三条殿」の解説

ひがしさんじょうどの【東三条殿】

平安京の貴族邸宅の一つ。寝殿造りの代表的なものとされる。平安初期の藤原良房邸とされ、ここに藤原兼家が969(安和2)年に邸宅を新造、入内した娘たちの里邸となり、親王の養育も行われ、里内裏(さとだいり)(天皇の外戚邸などに一時的に設ける御所)としても用いられた。後に兼家は「東三条殿」と称され、また次女詮子は「東三条院」の院号を授かった。その後も焼失・再建を繰り返しながら藤原氏代々氏長者に伝わり、立后・大饗などの儀式もここで行われた。1166(仁安1)年に焼失。平安京は中央を南北に朱雀(すざく)大路が縦貫し、東を左京、西を右京といい、それぞれに東西に通る大路で区切った9つの街区が設けられ、その街区を北から一条、二条……といったが、この邸は左京の三条(二条大路南側)に、南北2町(1町は約120m四方)を占め、この名がある。◇「とうさんじょうどの」ともいう。

とうさんじょうどの【東三条殿】

ひがしさんじょうどの。⇒ひがしさんじょうどの

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「東三条殿」の意味・わかりやすい解説

東三条殿
ひがしさんじょうどの

摂関家藤原氏の京邸。烏丸殿ともいう。三条坊門の北,西洞院の東にあり,平安時代後期には師通,忠実,忠通,頼長の邸宅となり,寝殿造一例として名高い。摂関家の邸宅として里内裏にもなり儀式場の性格をもっていた。中央の寝殿は平入り,東対は妻入りで身舎内に2間四方の塗籠を有する同様の平面を構成する。東対から南には中門廊が延び,間に中門を開く。さらに東には二棟廊,侍廊,車宿,随身所が建てられたが,西対は設けられず,透廊が南に延びて釣殿にいたる。「年中行事絵巻」に永久4 (1116) 年,大臣大饗がとり行われた際の絵があり,また当時の日記などからも寝殿造の邸宅と儀礼の関係を知ることができる。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「東三条殿」の意味・わかりやすい解説

東三条殿
ひがしさんじょうどの

平安京の代表的な邸宅の一つ。二条南町尻西(京都市中京区)に南北2町の地を占める。藤原良房(よしふさ)の邸宅に始まるといわれ、兼通(かねみち)、兼家(かねいえ)、道長(みちなが)と伝えられ、しだいに格式が高くなり、平安後期には藤原氏の氏長者(うじのちょうじゃ)が相続し、一族の重要な儀式を行う邸宅であり、里内裏(さとだいり)ともなった。兼家時代には、娘で円融(えんゆう)天皇の女御(にょうご)詮子(せんし)が住み、東三条院の院号を贈られ、一条(いちじょう)天皇もここで生まれた。保元(ほうげん)の乱当時、頼長(よりなが)が伝領していたため、後白河(ごしらかわ)天皇方に没収され、乱後の1166年(仁安1)に焼失してからのち再建されなかった。

[吉田早苗]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「東三条殿」の解説

東三条殿
ひがしさんじょうどの

東三条院とも。左京3条3坊1・2町にあった摂関家の邸宅。平安京の代表的邸宅。「拾芥抄」によれば,もと藤原良房(よしふさ)の邸宅であったといい,道長以降は代々の氏長者(うじのちょうじゃ)に属した。同邸の東にあった御倉町には,氏長者の象徴である朱器台盤(しゅきだいばん)などが保管されていた。里内裏(さとだいり)や重要な儀式にも用いられた。1166年(仁安元)京都大火の折に焼亡,以後再建されなかった。

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世界大百科事典(旧版)内の東三条殿の言及

【住居】より

…建物の入口は主として門に面して建てられた中門の側面に取り付けた廊(中門廊)の端の沓脱(くつぬぎ)が使われた。(c)1043年(長久4)から1166年(仁安1)まで藤原氏の邸宅として使われた東三条殿の寝殿は,6間×2間の身舎の四周に庇をまわし,北側にはさらに孫庇が設けられていた。身舎(母屋)(もや)は東端2間を妻戸(扉)で閉じて塗籠(ぬりごめ)とし,北庇と西庇は障子(現在いう襖)や遣戸(やりど)で小部屋に仕切られている。…

【藤原兼家】より

…ついで989年(永祚1)天皇元服の加冠奉仕のため太政大臣に任ぜられ,元服後,摂政・太政大臣を辞して関白に補されたが,まもなく病により辞官出家して如実と称し,990年7月2日,東三条邸において没した。法興院,大入道殿,東三条殿などと称された。【橋本 義彦】。…

※「東三条殿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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