日本歴史地名大系 「楠葉牧」の解説
楠葉牧
くすはのまき
淀川沿いの
楠葉牧は代々の摂関家氏長者が伝領する殿下渡領の一つで、保元の乱のあと藤原忠通が氏長者になったとき、大和国佐保殿・備前国鹿田庄・越前国方上庄・河内国楠葉牧の四ヵ所を渡領として継承したが、そのさい楠葉牧が所属する摂関家上厩の別当として、家司前河内守高階資泰が任じられ、当牧を知行している(「兵範記」保元元年七月一九日条)。
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淀川沿いの
楠葉牧は代々の摂関家氏長者が伝領する殿下渡領の一つで、保元の乱のあと藤原忠通が氏長者になったとき、大和国佐保殿・備前国鹿田庄・越前国方上庄・河内国楠葉牧の四ヵ所を渡領として継承したが、そのさい楠葉牧が所属する摂関家上厩の別当として、家司前河内守高階資泰が任じられ、当牧を知行している(「兵範記」保元元年七月一九日条)。
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河内国(かわちのくに)交野郡(かたのぐん)にあった牧。『和名抄(わみょうしょう)』にみえる葛葉郷(くすはごう)の地で、大阪府枚方市(ひらかたし)楠葉付近。摂関家氏長者(うじのちょうじゃ)が伝領する殿下渡領(でんかのわたりりょう)で、『小右記(しょうゆうき)』永観2年(984)11月~12月条によると、楠葉御牧司らが河内国司(こくし)と紛争を起こし、検非違使(けびいし)の発向を受けた。『御堂関白記(みどうかんぱくき)』の長和4年(1015)7月条に、播磨牧馬10疋が河内牧に放されたとあるが、楠葉牧のことか。同年9月には、藤原道長(みちなが)が楠葉牧にあった鐘を亡父兼家(かねいえ)の法興院(ほこいん)に懸けさせている。摂関家の家司(けいし)から任命された御厩(みまや)別当(べっとう)が牧を支配し、現地の牧司が牧を管理し、住人は馬の放牧・飼育などの実務にあたった。平安末期に当牧は河北(北条)と河南(南条)に分かれた。1094年(寛治8)には荘としてみえ、牧の住人は近隣の荘園に出作するなど耕作を進めたが、1162年(応保2)円成院領星田荘(ほしだのしょう)の住人等から年貢等を納めないと訴えられている。当地には内膳司(ないぜんし)領楠葉御園作手が居住し、平安時代から土器や河内鍋の名産地として知られた。鎌倉時代後半楠葉住人に麹(こうじ)を売買する者が現れ、販売権をもつ石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)境内杜郷(もりごう)から訴えられるなど、八幡宮の勢力が強まったが、南北朝期以後も河北・河南の両牧は存続した。
[小西瑞恵]
『西岡虎之助著『荘園史の研究』上巻(1953・岩波書店)』▽『枚方市史編纂委員会編『枚方市史』6・2巻(1968・1972)』▽『網野善彦他編『講座日本荘園史7』(1995・吉川弘文館)』
…領主別ではやはり石清水八幡宮と山門関係が多い。産業面では,摂関家の渡領として重要な楠葉牧(現,枚方市北部)を中心に土器の生産が盛んで,現在全国各地の中世遺跡から楠葉の土器が出土している。ことに禁裏料所楠葉御園で供御人(くごにん)の生産する土器皿は裏面に菊紋を押し,皇室に上納されるほか各地に流通し,民衆の間では〈河内鍋〉と呼ばれる土鍋が普及していた。…
…渡領とは,特定の地位に付随して渡り伝えられる所領をいい,平安中期には天皇に代々伝えられる後院渡領が成立しており,そのほか太政官の官務渡領や局務渡領などもあるが,史上とくに有名なものは藤原摂関家の渡領である。藤原氏長者の渡領については,1017年(寛仁1)道長が頼通に氏長者を譲ったときの寛仁の渡文が存したことを示す記録があり,当時すでに大和国佐保殿,備前国鹿田荘,越前国方上荘,河内国楠葉牧の4ヵ所から成る渡領が成立していたことがわかる。その後この渡文は,〈荘々送文〉とか〈荘園渡文〉とよばれ,氏長者の交替ごとに,朱器台盤などとともに新長者に渡された。…
※「楠葉牧」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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