デジタル大辞泉
「法性寺」の意味・読み・例文・類語
ほっしょう‐じ〔ホツシヤウ‐〕【法性寺】
京都市東山区にある浄土宗西山禅林寺派の寺。山号は、大悲山。延長3年(925)藤原忠平の創建。開山は天台座主法性房尊意。中世以後廃絶したが、明治になって尼寺として再興。本尊は日本には珍しい三面千手とよばれる千手観音立像で、国宝。
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ほっしょう‐じホッシャウ‥【法性寺】
- 京都市東山区本町にある浄土宗西山禅林寺派の寺。山号は大悲山。延長三年(九二五)藤原忠平(貞信公)が創建。開山は尊意。関白藤原忠通とその子の九条兼実が出家後寺内に住み法性寺入道と称した。本尊の二七面四二手の千手観音立像は国宝。ほうしょうじ。ほうそうじ。
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法性寺
ほつしようじ
京都市東山区から伏見区にかけて所在した寺院。旧跡は正安元年(一二九九)正月三〇日と裏書する法性寺御領山指図(田中家蔵)で、かなり推測できる。すなわち北は法性寺大路(現伏見街道)一の橋(泉涌寺道)、南は稲荷山、西は鴨川、東は東山山麓という広大な地域である。これは藤原氏の氏寺として何代にもわたり増建された子院などを含む寺域で、一部は現在の東福寺寺域と重なる。
〈京都・山城寺院神社大事典〉
〔創建〕
藤原忠平(貞信公)により延長三年(九二五)新堂が完成し、開基は弁日。「大鏡」は忠平が幼少の頃この付近を通り、父に「こここそよき堂所なんめれ。ここにたてさせ給へかし」といい、のちに建立したと記す。寺名は「花鳥余情」に「貞信公建立し給へり。尊意座主は貞信公の師檀なる故に法性房の名をとりて法性寺とはいへる也」とあるが、天台密教の教義の「法性(法性身)」によるとも考えられる。
「貞信公記」によれば延長二年二月一〇日条に「参法性寺、始聴鐘」とあり、以後九月に鐘楼がなり、一一月南堂に四菩薩像安置、翌年五月新堂完成、八月五大尊を新堂(東堂)に安置とある。同七年は忠平五〇歳の賀で、三月に純金の観音を厨子に納め、九月に盛大な斎会が営まれたが、「扶桑略記」の記事により本堂・東堂・南堂・大門・礼堂・鐘楼などがあり密教寺院様の建築と知れる。承平年間(九三一―九三八)には朱雀上皇が御願堂二宇を建てて御願寺となし(「九暦」天暦二年四月二三日条)、承平四年一〇月一〇日に定額寺となった(日本紀略)。天慶八年(九四五)二月二七日皇太后穏子の多宝塔供養があり(貞信公記)、天暦二年(九四八)六月五日忠平は讃岐国の封三〇石を施入した(同書)。翌三年三月一五日忠平七十の賀が尊勝堂であったが(李部王記)、八月一四日忠平は没し、遺体は法性寺に移されて同一八日、寺の北東に葬られた(日本紀略)。同六年には忠平の妹穏子を母とする朱雀上皇が没し、来定寺もしくは法性寺東中尾南原陵(現東山区)に葬られたが(帝王編年記)、導師は法性寺座主の鎮朝が務めた。同八年生母穏子の死去で村上天皇は二月二一日法性寺塔で供養をなし(扶桑略記)、三月二日法会を修している(村上天皇御記)。以後も藤原氏一門の氏寺として法要が多く修されている。
〔道長時代〕
この後小規模な罹災・復興があったが、法性寺が面目を一新するのは忠平の曾孫、藤原道長の時である。「小右記」寛弘二年(一〇〇五)五月一七日条・六月三〇日条によると、朱雀院の御願堂と礼堂が焼亡していたらしく、いまだに再建されていないので法性寺座主が貞信公一門で造料を負担してくれるよう願出、左府藤原道長が応援して一門の者に御願作料を送らせている。
法性寺
ほうしようじ
[現在地名]上野原町鶴島
鶴島集落の南東部にある。天台宗、富士山と号し、本尊は阿弥陀如来。「甲斐国志」によると桂川南岸坊の下という地にあった真言の古刹白蓮山連乗寺(蓮乗寺とも)の廃跡を興し、元禄一六年(一七〇三)真正が本願となり上鶴島に移して一宇を建立、開山になったのが草創と伝える。このとき領主であった秋元氏に訴えて上吉田村(現富士吉田市)法性寺という廃寺の寺号を賜り、秋元氏の祈願所であった泰安寺に属し天台の末院となったといい、これは幕府による新寺建立禁止の法度を恐れての処置であったという。
法性寺
ほうしようじ
[現在地名]小鹿野町般若
般若川の上流沿いの谷あいに位置する。般若山と号し、曹洞宗。本尊は薬師如来。寺蔵の縁起によれば奈良時代、行基によって開かれたとされるが、「風土記稿」などによれば、貞永元年(一二三二)に没した眼応玄察が開いたという。開創当時は真言密教系の寺院であったようである。宝永元年(一七〇四)現吉田町天徳寺八世智外宗察により曹洞宗に改められ、開基は元禄一四年(一七〇一)に没した柴崎藤重郎重義とされる。江戸時代には秩父札所第三二番観音の別当寺であった。
法性寺
ほうしようじ
[現在地名]石狩市弁天町
石狩川河口左岸にある。浄土宗、円照山真如院と号し、本尊は阿弥陀如来。「蝦夷三官寺」の一つ、芝増上寺末東蝦夷地ウス善光寺(現伊達市)の末寺として一八五九年(安政六年)に創建という(寺院沿革誌)。同寺末寺として同時に建立が許可されたソウヤ護国寺(現稚内市)、ヨイチ宝隆寺(現余市町)とともに「新三官寺」として並び称される。
法性寺
ほつしようじ
[現在地名]東山区本町十六丁目
本町通(伏見街道)の東側にあり、寺門・本堂ともに西面して街道に向かう。浄土宗西山禅林寺派、山号大悲山、本尊は木造千手観音立像。宝暦一二年(一七六二)刊の「京町鑑」中村町の項に、「此町東側、法性寺と云寺有。浄土宗也。洛陽三十三所の内の観音有」とみえ、「山州名跡志」には「法性寺 在東福寺北門前ノ南、西向。(中略)此本尊ハ古ヘ法性寺ノ内諸尊ノ其一也。彼ノ寺荒廃ノ後再建スル所也。旧地此ヨリ南西ニアリ」と述べる。
法性寺
ほつしようじ
明治四三年(一九一〇)に現在の千代二丁目に移転するまで蓮池町に所在した寺。修昌山と号し、日蓮宗。本尊は釈迦如来・多宝如来。正長元年(一四二八)日親が開いた筑前国最初の日蓮宗寺院と伝える(日親上人徳行記・続風土記)。日親は本法寺(現京都市上京区)の開山で、筑前・肥前などでも布教活動を行ったが、将軍足利義教によって投獄され、灼熱の鍋をかぶせられて改信を迫られた「鍋かぶり日親」として知られる。
法性寺
ほうしようじ
[現在地名]佐井村佐井 古佐井
古佐井の通称新町の東に位置し、西隣に発信寺がある。松寿山と号し、真宗大谷派。本尊は阿弥陀如来。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」に「法性寺 慶順山田名部徳玄寺末寺、浄土真宗」とある。天和三年(一六八三)の草創で、開基は廻船問屋能登屋長左衛門、開山は田名部(現むつ市)の徳玄寺二世専受と伝える(新撰陸奥国誌)。
法性寺
ほつしようじ
[現在地名]十和田市滝沢 館
館の東南にある。幡領山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」に「法性寺 幡領山八戸名久井法光寺末寺」とみえる。天正一〇年(一五八二)四月、僧秀椿の開山と伝える。一説には同一七年滝沢友左衛門による開基とも、文禄四年(一五九五)名久井(現三戸郡名川町)法光寺の七世霊室秀大桂和尚が中興開山ともいう。
法性寺
ほうしようじ
[現在地名]甚目寺町新居屋 善左屋敷
薬王山と号し、真言宗豊山派。本尊は薬師如来。寺伝によれば、天智天皇の勅願道場として盛時には一山一二坊の堂宇をもつ大伽藍であった。その後衰退したが、永禄元年(一五五八)日勢が中興したという。一説に大化年中(六四五―六五〇)この村人で薬師如来を深く信仰していた某の所に一人の老翁が来て霊像を彫り姿を消した。
法性寺
ほつしようじ
[現在地名]熊本市川尻町 小路
旧薩摩街道筋の西を南北に通る小路町筋に面する。帰命山無量寿院と号し、浄土宗、本尊は聖徳太子作と伝える三尺五寸の阿弥陀如来で、脇侍は観音・勢至菩薩である。弘安二年(一二七九)の開基と伝え、天正三年(一五七五)信蓮社信誉が中興再建(同七年ともいう)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
法性寺 (ほっしょうじ)
平安時代の藤原氏の氏寺。藤原忠平の創建で,925年(延長3)新堂が完成し,承平年間(931-938)に御願寺になった。寺域は現在の京都市東山区の東福寺一帯から西は鴨川,南は伏見区の稲荷山に及んでいた。代々摂関家の氏寺として,一族の子院が寺域内に営まれ,平安後期に栄えた。1239年(延応1)九条道家がこの地に東福寺を建立したので寺域は狭小となり,堂舎も五大堂を残してすべて失われた。今日では東福寺近辺の浄土宗の尼寺に寺名をとどめるだけである。旧法性寺遺宝と伝えるものに,五大堂不動明王像(東福寺山内同聚院蔵)と千手観音像(現,法性寺蔵),子院の浄光明院本尊と伝える阿弥陀如来像(京都国立博物館蔵)がある。
執筆者:藤井 学
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
法性寺
ほっしょうじ
京都市東山(ひがしやま)区本町(ほんまち)にある浄土宗西山(せいざん)禅林寺派の寺。大悲山(だいひざん)一音院(いっとんいん)と号する。925年(延長3)藤原忠平(ただひら)の建立で、天台座主(ざす)法性房尊意(そんい)を開山とする。代々円仁(えんにん)流の座主が任命され、定額(じょうがく)寺に列して栄えたが、中世以後になると衰退、明治になって観音堂に旧名を復して尼寺とした。本尊の千手(せんじゅ)観音像(国宝)は日本には珍しい「三面千手」とよばれるもので、二十七面四十二手の異形で、創建当初の作と推定される。
[玉山成元]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
法性寺
ほっしょうじ
京都市東山区にある浄土宗西山派の寺。延長3 (925) 年に藤原時平の発願によって創建される。寺名は,延暦寺座主法性房尊意の名に由来する。かつて,この寺は法性寺大路の名の残る地所 (鴨川の東,九条の南) にあった。応仁の乱で兵火にあうが,国宝『千手観音立像』のほか,数躯の仏像を伝える。観音像は 10世紀の作とされ,本体はサクラの一木造。面数は本面を合せて 28面あり,手は 42臂。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報