関東大震災の混乱を利用し、軍隊が警察の協力を受けて東京・亀戸の労働者らを殺害した事件。1923年(大正12)9月大震災が起こると、警察は多くの朝鮮人や社会主義者、労働組合員を検挙したが、亀戸署でも約700名を検挙した。このうち純労働者組合の平沢計七(けいしち)、中筋宇八、南葛(なんかつ)労働会の川合義虎(かわいよしとら)、加藤高寿(こうじゅ)、北島吉蔵(きちぞう)、近藤広蔵(こうぞう)、佐藤欣治(きんじ)、鈴木直一(なおいち)、山岸実司(じつじ)、吉村光治(こうじ)の10名は9月3日夜検束され、同日夜から4日未明にかけて(4日夜から5日未明にかけてとする説もある)、習志野(ならしの)騎兵第一三連隊の兵士によって亀戸署構内または荒川放水路で殺害された。10名のうち2名は別の時間に殺されたともいわれている。4日前後に自警団員4名、日本労技会(日本車輛(しゃりょう)などに組織をもっていた労働組合)幹事1名、柔道師範1名、朝鮮人多数も亀戸署内または荒川放水路で殺害された。純労働者組合や南葛労働会は、悪法反対運動やメーデー、1922年(大正11)の大島製鋼所争議などをめぐって亀戸署と激しく対立していた。事件は10月10日に初めて公表されたが、軍隊の行為は戒厳令下の行動として当然のこととされた。自由法曹団の布施辰治(ふせたつじ)、山崎今朝弥(けさや)両弁護士らは事件の真相を追及して司法権の発動を要求し、南葛労働会や総同盟は糾弾運動を行い、小牧近江(こまきおうみ)、金子洋文(ようぶん)らの種蒔(たねま)き社は、自由法曹団が作成した資料に基づいて殉難記『種蒔き雑記』を発行したが、いずれも黙殺された。
[吉見義明]
『亀戸事件建碑記念会編『亀戸事件の記録』(1972・日本国民救援会)』
1923年9月1日に起こった関東大震災の混乱に乗じ,東京亀戸警察署で9名の労働運動家が虐殺された事件。9月3日,元友愛会幹部・元純労働者組合組合長平沢計七,共産青年同盟委員長・南葛労働会組合員川合義虎らが亀戸警察署に拘留され,同夜から5日未明の間に騎兵第13連隊の兵士によって殺された。10月10日に事件が発表されたが,事件発生直後から南葛労働会,総同盟などの労働組合と自由法曹団が真相究明に乗りだした。江東地方は南葛労働会,純労働者組合を中心に労働運動の先進地で,労働争議,政治運動も盛んで警察とはたえず摩擦を生じていたことからこの事件が起こったとみられる。震災時の朝鮮人虐殺事件,大杉栄らの虐殺(甘粕事件)とともに社会運動に大きな影響を与え,日本労働総同盟の現実主義路線への転換の一要因となった。1970年9月に〈亀戸事件犠牲者之碑〉が亀戸の赤門寺(正称浄心寺)に建立された。
執筆者:渡辺 悦次
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1923年(大正12)9月,関東大震災のときに亀戸警察署でおきた警察・軍隊による社会主義者虐殺事件。ほかに朝鮮人や自警団員4人も殺された。震災発生後の戒厳令下の4日,自警団として立番中の木村丈四郎ら4人が警官に暴行を加えたとして検挙され,習志野騎兵第13連隊の兵士に刺殺された。同じく救援活動に従事していた純労働者組合の平沢計七・中筋宇八,南葛(なんかつ)労働会の川合義虎(よしとら)ら8人も3日亀戸署に捕らえられ,留置場で革命歌を歌い,他の留置者を煽動,警察の手に負えないとして騎兵隊に虐殺された。事件は厳秘にされていたが,甘粕事件第1回公判の際に表面化,10月10日公表され,社会的反響をよんだ。
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