袋中(読み)ふくろうち

日本歴史地名大系 「袋中」の解説

袋中
ふくろうち

現在の中田町南部地域をさすと思われる中世から近世初頭の広域地名。文禄二年(一五九三)葛西平次郎正信が記録したといわれる「葛西盛衰記」に、南北朝期葛西対馬守武治の時「登米袋中佐沼手に入れ」とあり、さらに「袋中 弐拾四郷」とある。近世初頭に流路変更がなされるまで、北上川登米郡において現河道の西方を流れ、浅水あさみず地区の水越みずこしから葛籠淵つづらぶち宝江たからえ地区を経て米山よねやま町の吉田よしだ地区に流下した。この北上川の河道の西が中世以来袋中とよばれた(登米郡史)。慶長五年(一六〇〇)の漆請取日記(伊達家文書)に「一かさいの内 ふくろ中」とみえ、年月日未詳の伊達領内領知日記(同文書)に「袋中 一にいだの内 遠藤出羽あけち 一黒沼之内 湯村かゝあけち」とある。

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改訂新版 世界大百科事典 「袋中」の意味・わかりやすい解説

袋中 (たいちゅう)
生没年:1552-1639(天文21-寛永16)

近世初頭の浄土宗の学僧。字(あざな)は良定りようじよう),弁蓮社と号する。賀茂杢兵衛の子として陸奥国岩城郡に生まれた。14歳で叔父の能満寺存洞(ぞんとう)について出家し,のち如来寺,専称寺,円通寺など浄土宗名越(なごえ)派の檀林(だんりん)で修学。25歳のとき江戸の増上寺の学寮に入って白旗(しらはた)派の奥義をきわめた。懇請をうけて郷里成徳寺住職となり,布教のかたわら《浄土血脈論(けちみやくろん)》《麒麟聖財論私釈(きりんしようざいろんししやく)》《大原問答端書(おおはらもんどうはしがき)》などを著した。1603年(慶長8)経論を求めるため明に渡ろうとしたが,琉球漂着。国王尚寧王の帰依をうけ,城外の桂林寺に住み,浄土教を広め,また《琉球神道記》を著した。滞在3年にして06年帰国後,山城国山崎の大念寺などに錫(しやく)をとどめ,11年京都の三条橋の東に鎌倉後期の浄土宗の高僧道光(了慧(りようえ))の旧跡望西楼(ぼうせいろう)を復興し,檀王法林寺を建立した。その後は洛北氷室(ひむろ)山に移り,あるいは洛東に小庵を結んで閑静な生活をおくり,この間に《天竺往生験記端書》《臨終要決私記》などを著述した。晩年になって奈良念仏寺,山城国瓶原(みかのはら)に心光庵を建て,さらに飯岡の西芳寺に移り,88歳で没した。著書は以上のほか《梵漢対映集》《選択之伝(せんちやくのでん)》など多くのものがあり,建立した寺院は20を超え,足跡は各地に及び,その活動範囲はきわめて広い。近世浄土宗の発展に尽くした屈指の僧である。
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朝日日本歴史人物事典 「袋中」の解説

袋中

没年:寛永16.1.21(1639.2.23)
生年:天文21(1552)
室町末から江戸初期にかけての浄土宗の僧。『琉球神道記』の著者。良定ともいう。陸奥国菊多郡(福島県いわき市)生まれ。14歳で同国能満寺で出家し,名越派の檀林で修学。古記録,写本の収集に関心を持った。のちに増上寺の学寮で学び,諸国を遍歴しながら天文,地理,神道,兵法などを習い,浄土宗の教化にも努めた。郷里の成徳寺にもどり,13世となる。布教のかたわら,『梵漢対映集』『浄土血脈論』『麒麟聖財論私釈』を書いて,学僧の地位を築いた。平城主岩城貞隆の帰依を受けて,城内に称名道場を作った。慶長8(1603)年,52歳のときに中国へ行こうとしてまず琉球におもむき,そこで布教に尽力した。琉球国王尚寧の帰依を得て,桂林寺を創立する。桂林寺に住みながら教化をするとともに,尚寧の懇請で『琉球神道記』『琉球往来記』を執筆する。同11年に帰国して,道光の旧跡望西楼を復興して京都三条大橋詰に檀林法林寺を建立した。のちに洛北の氷室谷や東山菊ケ谷に庵をむすび,静かな生活を送り,著作活動に打ち込んだ。建立した寺院は20余りあり,足跡は各地におよんだ。袋中の門下からすぐれた学匠が輩出した。著書は他に『評摧邪輪』などがある。<参考文献>『袋中上人伝』

(林淳)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「袋中」の意味・わかりやすい解説

袋中
たいちゅう
(1552―1639)

近世初期の浄土宗の学僧。弁蓮社入観(べんれんじゃにゅうかん)、良定(りょうじょう)ともいう。奥州菊多郡岩岡(福島県いわき市)佐藤定衡(さとうさだひら)の子として生まれる。如来(にょらい)寺、専称(せんしょう)寺(ともに福島県)、円通寺(栃木県)、増上寺などで浄土宗義を学び、さらに研究を深めるため1603年(慶長8)明(みん)への留学を企てた。しかし、失敗して琉球(りゅうきゅう)(沖縄)に漂着。国王尚寧王(しょうねいおう)(在位1589~1620)の帰依(きえ)を受け、桂林寺(けいりんじ)を創建、『琉球神道記』などを著した。帰国後も引き続いて教化・著述に努め、近世浄土宗発展のうえに大きな功績を残した。著述は『大原談義聞書鈔端書(おおはらだんぎききがきしょうはしがき)』『臨終要決私記』をはじめとして67部の多くを数える。

[廣川尭敏 2017年9月19日]

『横山重編『琉球神道記』(1970・角川書店/原田禹雄訳・注・2001・榕樹書林)』『藤堂祐範著『浄土教文化史論』(1979・山喜房仏書林)』

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「袋中」の解説

袋中 たいちゅう

1552-1639 織豊-江戸時代前期の僧。
天文(てんぶん)21年1月生まれ。浄土宗。江戸増上寺の学寮でまなぶ。慶長8年(1603)明(みん)(中国)にわたろうとして琉球に漂着,尚寧(しょうねい)王の帰依(きえ)をうけて那覇に桂林寺をひらく。「琉球神道記」などをあらわす。11年帰国し,16年京都法林寺を再興した。寛永16年1月21日死去。88歳。陸奥(むつ)菊多郡(福島県)出身。俗姓は佐藤。法名は別に良定(りょうじょう)。号は弁蓮社入観。著作に「浄土血脈論」など。

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