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河(川)内文(書)氏とも。応神朝に百済(くだら)から来朝したと伝える王仁(わに)を祖とする渡来系氏族。東漢(やまとのあや)氏の一族である東文氏に対して西文氏と称したか。西漢氏との関係は不詳。河内国古市郡(現,羽曳野市)を本拠とし,氏寺は西琳寺。姓ははじめ首(おびと),683年(天武12)9月に連(むらじ),685年6月に忌寸(いみき),791年(延暦10)4月に宿禰(すくね)に改姓。「古語拾遺」によれば,雄略朝に東文氏とともに三蔵の簿を勘録。令制下でも両氏を中心とする東西史部の子弟は大学入学の対象とされた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…同じころに弟の牛も津史,甥の胆津(いつ)も白猪屯倉(しらいのみやけ)の功により白猪史となっているから,彼らは渡来して間もない帰化人だったのであろう。この一族はみな河内国丹比郡に住み,船氏の居地は同郡野中郷(大阪府羽曳野市野々上付近)で,王仁(わに)の子孫である西文(かわちのふみ)氏の居地ときわめて近接していた。はるか下った790年(延暦9)の百済王仁貞らの上表文では,辰爾らの祖は百済の貴須王で,その孫の辰孫王が応神朝に渡来したという西文氏と酷似した系譜を述べており,《新撰姓氏録》もそれに従っているが,それほど古い帰化人かどうかは疑わしい。…
…帰化系氏族の西文(河内書)(かわちのふみ)氏の祖と伝える人物。《日本書紀》によると,応神天皇のときに百済王が阿直岐(あちき)という者を遣わして良馬2匹を献上したが,阿直岐がよく経典を読んだので,汝に勝る博士がいるかと問うと,王仁という者がいると答えた。…
※「西文氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
小麦粉を練って作った生地を、幅3センチ程度に平たくのばし、切らずに長いままゆでた麺。形はきしめんに似る。中国陝西せんせい省の料理。多く、唐辛子などの香辛料が入ったたれと、熱した香味油をからめて食べる。...
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