平安時代の僧で、俗称鳥羽僧正(とばそうじょう)。大納言源隆国(だいなごんみなもとのたかくに)の第9子で本名顕智。園城寺(おんじょうじ)の覚円(1031―1098)に師事し出家。1081年(永保1)四天王寺別当職に任ぜられたが、1094年(嘉保1)園城寺に戻り、1121年(保安2)法印大和尚位(だいおしょうい)に叙せられる。1131年(天承1)鳥羽離宮内の証金剛院別当に任ぜられ、ここに常住したために鳥羽僧正と俗称された。その後も社会的な活躍は目覚ましく、1134年(長承3)には大僧正および法成寺(ほうじょうじ)別当に補せられ、さらに翌1135年(保延1)園城寺長吏となる。鳥羽上皇の信任厚く、仏教界の重鎮としてさまざまな加持祈祷(かじきとう)を行った。画技に秀でていたことが文献より知られ、また鳥羽僧正筆と伝承される図像も存するが、確実な遺品は残されていない。『鳥獣人物戯画』『信貴山(しぎさん)縁起絵巻』など線描主体の絵画作品の画家として伝えられてきたが、現在ではほぼ否定されている。ただし『鳥獣人物戯画』的な画風の絵に優れていたことは、諸文献の記述から推測される。またこのような覚猷の風刺画家的な側面は早くから知られていた。それは後世滑稽(こっけい)な風刺画を「鳥羽絵」とよんだことにも表れている。
[加藤悦子 2017年6月20日]
密教図像の収集,書写に貢献し,後に天台座主にもなった平安時代の高僧。大納言源隆国の子。覚円に師事,四天王寺別当となり同寺復興に功をたてたあと,三井寺(園城寺)に法輪院を建立して籠居すること二十数年,密教事相の研究に努め,収集の図像は〈法輪院本〉として重きをなした。晩年は鳥羽上皇の信任篤く,鳥羽離宮に住し,鳥羽僧正と称された。画技をよくし,《古今著聞集》には,風刺画に巧みであったと伝えられ,後世の滑稽な戯画を指す鳥羽絵の名称の起源ともなっている。古くから《鳥獣戯画》(高山寺)の筆者に擬せられてもいるが確証はない。むしろ転写本ではあるが,鳥羽僧正様《不動明王図像》(醍醐寺)などに彼の画業がうかがえる。また晩年の1136年鳥羽上皇が創建した勝光明院の扉絵制作を依頼され,この時は〈老屈〉と称して辞退している(《長秋記》)が,当時一流の絵仏師に伍して召された事実は本格的な画技の持主であったことを示すものであろう。
執筆者:田口 栄一
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1053~1140.9.15
鳥羽僧正(とばそうじょう)・法輪院僧正とも。平安後期の天台宗僧。大納言源隆国(たかくに)の子。覚円(かくえん)に師事。頼豪(らいごう)に灌頂(かんじょう)をうけた。鳥羽上皇の好遇を得て護持僧を勤め,鳥羽殿御堂(証金剛院(しょうこんごういん)),ついで園城寺(おんじょうじ)法輪院を創建して住した。1079年(承暦3)法成寺修理別当の賞により法橋となる。それ以降,絵画活動がみえ,図像の収集に努めたほか画技にも腕をふるい,「古今著聞集(ここんちょもんじゅう)」には「ちかき世にはならびなき絵書」と評された。醍醐寺蔵「不動明王立像」や「信貴山(しぎさん)縁起絵巻」「鳥獣人物戯画」はその筆になるといわれる。一方,天王寺・証金剛院・梵釈寺・法勝寺などの別当を歴任。1134年(長承3)大僧正,翌年園城寺長吏,38年(保延4)天台座主(ざす)となった。
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(矢島新)
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…各巻の内容の解釈,制作の動機をはじめ未解決の問題が多いが,特にすぐれた作風をみせる甲巻は当初さらに多くの場面からなり,2巻仕立てであったことなどが近年の研究で明らかにされている。甲,乙巻に関しては,戯画をよくしたと伝えられる鳥羽僧正覚猷(かくゆう)の作との伝承もあるが,確証はなく,墨描きに習熟した専門画師の手になるものと解されよう。【田口 栄一】。…
※「覚猷」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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