覚猷(読み)カクユウ

デジタル大辞泉 「覚猷」の意味・読み・例文・類語

かくゆう〔カクイウ〕【覚猷】

[1053~1140]平安後期の天台宗の僧。大納言源隆国の第9子。初名は顕智園城おんじょうの覚円に師事し、のち、天台座主ざす大僧正となった。鳥羽離宮内の証金剛院に住したので俗に鳥羽僧正といわれ、画事に堪能。「鳥獣戯画」「信貴山縁起しぎさんえんぎ」の作者とされるが確証はない。

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精選版 日本国語大辞典 「覚猷」の意味・読み・例文・類語

かくゆうカクイウ【覚猷】

  1. とばそうじょう(鳥羽僧正)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「覚猷」の意味・わかりやすい解説

覚猷
かくゆう
(1053―1140)

平安時代の僧で、俗称鳥羽僧正(とばそうじょう)。大納言源隆国(だいなごんみなもとのたかくに)の第9子で本名顕智。園城寺(おんじょうじ)の覚円(1031―1098)に師事し出家。1081年(永保1)四天王寺別当職に任ぜられたが、1094年(嘉保1)園城寺に戻り、1121年(保安2)法印大和尚位(だいおしょうい)に叙せられる。1131年(天承1)鳥羽離宮内の証金剛院別当に任ぜられ、ここに常住したために鳥羽僧正と俗称された。その後も社会的な活躍は目覚ましく、1134年(長承3)には大僧正および法成寺(ほうじょうじ)別当に補せられ、さらに翌1135年(保延1)園城寺長吏となる。鳥羽上皇信任厚く、仏教界の重鎮としてさまざまな加持祈祷(かじきとう)を行った。画技に秀でていたことが文献より知られ、また鳥羽僧正筆と伝承される図像も存するが、確実な遺品は残されていない。『鳥獣人物戯画』『信貴山(しぎさん)縁起絵巻』など線描主体の絵画作品の画家として伝えられてきたが、現在ではほぼ否定されている。ただし『鳥獣人物戯画』的な画風の絵に優れていたことは、諸文献の記述から推測される。またこのような覚猷の風刺画家的な側面は早くから知られていた。それは後世滑稽(こっけい)な風刺画を「鳥羽絵」とよんだことにも表れている。

[加藤悦子 2017年6月20日]


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改訂新版 世界大百科事典 「覚猷」の意味・わかりやすい解説

覚猷 (かくゆう)
生没年:1053-1140(天喜1-保延6)

密教図像の収集,書写に貢献し,後に天台座主にもなった平安時代の高僧。大納言源隆国の子。覚円に師事,四天王寺別当となり同寺復興に功をたてたあと,三井寺(園城寺)に法輪院を建立して籠居すること二十数年,密教事相の研究に努め,収集の図像は〈法輪院本〉として重きをなした。晩年は鳥羽上皇の信任篤く,鳥羽離宮に住し,鳥羽僧正と称された。画技をよくし,《古今著聞集》には,風刺画に巧みであったと伝えられ,後世の滑稽な戯画を指す鳥羽絵の名称の起源ともなっている。古くから《鳥獣戯画》(高山寺)の筆者に擬せられてもいるが確証はない。むしろ転写本ではあるが,鳥羽僧正様《不動明王図像》(醍醐寺)などに彼の画業がうかがえる。また晩年の1136年鳥羽上皇が創建した勝光明院の扉絵制作を依頼され,この時は〈老屈〉と称して辞退している(《長秋記》)が,当時一流の絵仏師に伍して召された事実は本格的な画技の持主であったことを示すものであろう。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「覚猷」の解説

覚猷
かくゆう

1053~1140.9.15

鳥羽僧正(とばそうじょう)・法輪院僧正とも。平安後期の天台宗僧。大納言源隆国(たかくに)の子。覚円(かくえん)に師事。頼豪(らいごう)に灌頂(かんじょう)をうけた。鳥羽上皇の好遇を得て護持僧を勤め,鳥羽殿御堂(証金剛院(しょうこんごういん)),ついで園城寺(おんじょうじ)法輪院を創建して住した。1079年(承暦3)法成寺修理別当の賞により法橋となる。それ以降,絵画活動がみえ,図像の収集に努めたほか画技にも腕をふるい,「古今著聞集(ここんちょもんじゅう)」には「ちかき世にはならびなき絵書」と評された。醍醐寺蔵「不動明王立像」や「信貴山(しぎさん)縁起絵巻」「鳥獣人物戯画」はその筆になるといわれる。一方,天王寺・証金剛院・梵釈寺・法勝寺などの別当を歴任。1134年(長承3)大僧正,翌年園城寺長吏,38年(保延4)天台座主(ざす)となった。

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百科事典マイペディア 「覚猷」の意味・わかりやすい解説

覚猷【かくゆう】

平安時代の天台宗の僧。《今昔物語集》の著者と伝える源隆国の子で,園城(おんじょう)寺の覚円について出家した。鳥羽離宮内の証金剛(しょうこんごう)院の別当になり,俗に鳥羽僧正(とばそうじょう)といわれ,法成(ほうじょう)寺別当,園城寺長吏,天台座主(ざす)などを歴任,この間大僧正に任ぜられた。画技にすぐれ,園城寺法輪院在住のとき密教図像を写してその収集研究に貢献。古くから《鳥獣戯画》の作者とされたが,確証はない。戯画に巧みであったといわれ,そのため後世,風刺画を鳥羽絵と呼んだ。
→関連項目鳥獣戯画

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朝日日本歴史人物事典 「覚猷」の解説

覚猷

没年:保延6.9.15(1140.10.27)
生年:天喜1(1053)
平安後期の天台宗の高僧。画技をよくしたことで名高い。『宇治大納言物語』の作者源隆国の子。園城寺覚円の弟子。鳥羽離宮に住んで鳥羽僧正と呼ばれた。鳥羽上皇の護持僧を務め,園城寺長吏や天台座主を歴任。画事の面では『古今著聞集』に「ならびなき画かき」と記され,『長秋記』には京都勝光明院の扉絵制作を命ぜられたとあるなど,当時第一級の評価を得ていた。密教の白描図像の研究でも知られ,収集の図像は法輪院本と呼ばれた。「鳥獣戯画」や「信貴山縁起絵巻」の作者とされるが確証はない。覚猷が得意としたとの伝承にちなんで戯画の系統を鳥羽絵と呼ぶ。

(矢島新)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「覚猷」の意味・わかりやすい解説

覚猷
かくゆう

[生]天喜1(1053)
[没]保延6(1140)
平安時代の僧。源隆国の子。覚円に師事,四天王寺別当となり同寺の復興に尽力した。その後,三井法輪院を建立,密教の研究に努め,その間,収集,書写した図像は法輪院本として重きをなした。のち天台座主にも補され,鳥羽上皇に信任されて鳥羽離宮に住み,鳥羽僧正と呼ばれた。『鳥獣人物戯画』 (高山寺) の筆者に擬せられるように風刺画が巧みであったと伝えられる (→鳥羽絵 ) 。転写本では鳥羽僧正様『不動明王図像』 (醍醐寺) などが知られる。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「覚猷」の解説

覚猷 かくゆう

1053-1140 平安時代後期の僧。
天喜(てんぎ)元年生まれ。源隆国の9男。天台宗園城(おんじょう)寺の覚円に師事して出家。鳥羽上皇の信任あつく,鳥羽離宮の証金剛院の住持となったため,鳥羽僧正とよばれた。園城寺長吏などを歴任し,保延(ほうえん)4年天台座主。画にひいで「鳥獣人物戯画」の作者ともいわれる。保延6年9月15日死去。88歳。俗名は顕智。通称は法輪院僧正。
【格言など】処分は腕力に依るべし(遺産配分を弟子に指示した遺言)

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世界大百科事典(旧版)内の覚猷の言及

【鳥獣戯画】より

…各巻の内容の解釈,制作の動機をはじめ未解決の問題が多いが,特にすぐれた作風をみせる甲巻は当初さらに多くの場面からなり,2巻仕立てであったことなどが近年の研究で明らかにされている。甲,乙巻に関しては,戯画をよくしたと伝えられる鳥羽僧正覚猷(かくゆう)の作との伝承もあるが,確証はなく,墨描きに習熟した専門画師の手になるものと解されよう。【田口 栄一】。…

※「覚猷」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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