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覚猷 かくゆう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

覚猷
かくゆう

[生]天喜1(1053)
[没]保延6(1140)
平安時代の僧。源隆国の子。覚円に師事,四天王寺別当となり同寺の復興に尽力した。その後,三井法輪院を建立,密教の研究に努め,その間,収集,書写した図像は法輪院本として重きをなした。のち天台座主にも補され,鳥羽上皇に信任されて鳥羽離宮に住み,鳥羽僧正と呼ばれた。『鳥獣人物戯画』 (高山寺) の筆者に擬せられるように風刺画が巧みであったと伝えられる (→鳥羽絵 ) 。転写本では鳥羽僧正様『不動明王図像』 (醍醐寺) などが知られる。

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デジタル大辞泉の解説

かくゆう〔カクイウ〕【覚猷】

[1053~1140]平安後期の天台宗の僧。大納言源隆国の第9子。初名顕智園城(おんじょう)寺の覚円に師事し、のち、天台座主(ざす)・大僧正となった。鳥羽離宮内の証金剛院に住したので俗に鳥羽僧正といわれ、画事に堪能。「鳥獣戯画」「信貴山縁起(しぎさんえんぎ)」の作者とされるが確証はない。

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百科事典マイペディアの解説

覚猷【かくゆう】

平安時代の天台宗の僧。《今昔物語集》の著者と伝える源隆国の子で,園城(おんじょう)寺の覚円について出家した。鳥羽離宮内の証金剛(しょうこんごう)院の別当になり,俗に鳥羽僧正(とばそうじょう)といわれ,法成(ほうじょう)寺別当,園城寺長吏,天台座主(ざす)などを歴任,この間大僧正に任ぜられた。
→関連項目鳥獣戯画

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

覚猷 かくゆう

1053-1140 平安時代後期の僧。
天喜(てんぎ)元年生まれ。源隆国の9男。天台宗園城(おんじょう)寺の覚円に師事して出家。鳥羽上皇の信任あつく,鳥羽離宮の証金剛院の住持となったため,鳥羽僧正とよばれた。園城寺長吏などを歴任し,保延(ほうえん)4年天台座主。画にひいで「鳥獣人物戯画」の作者ともいわれる。保延6年9月15日死去。88歳。俗名は顕智。通称は法輪院僧正。
【格言など】処分は腕力に依るべし(遺産配分を弟子に指示した遺言)

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朝日日本歴史人物事典の解説

覚猷

没年:保延6.9.15(1140.10.27)
生年:天喜1(1053)
平安後期の天台宗の高僧。画技をよくしたことで名高い。『宇治大納言物語』の作者源隆国の子。園城寺覚円の弟子。鳥羽離宮に住んで鳥羽僧正と呼ばれた。鳥羽上皇護持僧を務め,園城寺長吏や天台座主を歴任。画事の面では『古今著聞集』に「ならびなき画かき」と記され,『長秋記』には京都勝光明院の扉絵制作を命ぜられたとあるなど,当時第一級の評価を得ていた。密教の白描図像の研究でも知られ,収集の図像は法輪院本と呼ばれた。「鳥獣戯画」や「信貴山縁起絵巻」の作者とされるが確証はない。覚猷が得意としたとの伝承にちなんで戯画の系統を鳥羽絵と呼ぶ。

(矢島新)

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世界大百科事典 第2版の解説

かくゆう【覚猷】

1053‐1140(天喜1‐保延6)
密教図像の収集,書写に貢献し,後に天台座主にもなった平安時代の高僧。大納言源隆国の子。覚円に師事,四天王寺別当となり同寺復興に功をたてたあと,三井寺(園城寺)に法輪院を建立して籠居すること二十数年,密教事相の研究に努め,収集の図像は〈法輪院本〉として重きをなした。晩年は鳥羽上皇の信任篤く,鳥羽離宮に住し,鳥羽僧正と称された。画技をよくし,《古今著聞集》には,風刺画に巧みであったと伝えられ,後世の滑稽な戯画を指す鳥羽絵の名称の起源ともなっている。

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大辞林 第三版の解説

かくゆう【覚猷】

1053~1140) 平安後期の画僧。京都生まれ。天台宗の僧として鳥羽上皇からの帰依をうけ、鳥羽離宮内に住し鳥羽僧正と称される。密教図像を研究、画技に優れ「鳥獣戯画」「信貴山しぎさん縁起」などの作者とする説がある。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

覚猷
かくゆう
(1053―1140)

平安時代の僧で、俗称鳥羽僧正(とばそうじょう)。大納言源隆国(だいなごんみなもとのたかくに)の第9子で本名顕智。園城寺(おんじょうじ)の覚円(1031―1098)に師事し出家。1081年(永保1)四天王寺別当職に任ぜられたが、1094年(嘉保1)園城寺に戻り、1121年(保安2)法印大和尚位(だいおしょうい)に叙せられる。1131年(天承1)鳥羽離宮内の証金剛院別当に任ぜられ、ここに常住したために鳥羽僧正と俗称された。その後も社会的な活躍は目覚ましく、1134年(長承3)には大僧正および法成寺(ほうじょうじ)別当に補せられ、さらに翌1135年(保延1)園城寺長吏となる。鳥羽上皇の信任厚く、仏教界の重鎮としてさまざまな加持祈祷(かじきとう)を行った。画技に秀でていたことが文献より知られ、また鳥羽僧正筆と伝承される図像も存するが、確実な遺品は残されていない。『鳥獣人物戯画』『信貴山(しぎさん)縁起絵巻』など線描主体の絵画作品の画家として伝えられてきたが、現在ではほぼ否定されている。ただし『鳥獣人物戯画』的な画風の絵に優れていたことは、諸文献の記述から推測される。またこのような覚猷の風刺画家的な側面は早くから知られていた。それは後世滑稽(こっけい)な風刺画を「鳥羽絵」とよんだことにも表れている。[加藤悦子]

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世界大百科事典内の覚猷の言及

【鳥獣戯画】より

…各巻の内容の解釈,制作の動機をはじめ未解決の問題が多いが,特にすぐれた作風をみせる甲巻は当初さらに多くの場面からなり,2巻仕立てであったことなどが近年の研究で明らかにされている。甲,乙巻に関しては,戯画をよくしたと伝えられる鳥羽僧正覚猷(かくゆう)の作との伝承もあるが,確証はなく,墨描きに習熟した専門画師の手になるものと解されよう。【田口 栄一】。…

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