1665年(寛文5)7月11日,江戸幕府が発した神社・神職統制のための法度。同日付で寺院・僧侶統制の寺院法度が出されており,両者合わせて幕府の宗教統制策の根幹をなした。本法度は5ヵ条からなっている。第1条は〈諸社の禰宜,神主などはもっぱら神祇道を学び,神体を崇敬し,神事祭礼をつとめること〉,第2条は〈社家が位階を受ける場合,朝廷に執奏する公家(寺社伝奏)が前々よりある場合は,これまでどおりとする〉,第3条は〈無位の社人は白張を着すように。白張以外の装束(狩衣など)を着けるときは吉田家の許状を受けること〉,第4条は〈神領はいっさい売買しても質に入れてもいけない〉,第5条は〈神社は小破のときに修理を加えて維持につとめ,掃除を怠らないように〉という内容であった。このうち第2条に関しては論議を呼んだ。すなわち官位執奏家のあった22社(伊勢,石清水,賀茂など)は従来どおりで,それ以外は吉田家の執奏とすることに諸大社・朝廷側から抗議がなされたのである。その結果,出雲大社,常州鹿島,下総香取,信州諏訪,尾州熱田,紀州日前(ひのくま)宮,同熊野,肥後阿蘇宮,豊前宇佐宮の大社は吉田家執奏外となされた。のみならず,その他の神社についても,必ずしも吉田家執奏に限定はされなかった。そのため吉田家を通して官位執奏をする神職のほかに,白川家や他の公家の執奏を願う神職も増えていった。江戸時代後期に,地方の神職を吉田家と白川家とが競って配下におさめようとしたのはこのような事情に起因する。本法度は,1782年(天明2)10月幕府によって全国に再触が出されたが,これも吉田家が支配を及ぼすために再三にわたって幕府に要望した結果であった。幕府は,執奏家のなかった神職の執奏を吉田・白川両家ともに容認する政策をとったが,装束に関しては吉田家の許状を受けるように規定した。吉田家は,無位の神職に有位者同様の装束を与えることで,無位の神職の格上げをはかり,ひいては吉田家配下神職を増やしていった。
執筆者:高埜 利彦
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神社法度とも。江戸幕府が神社・神職統制のため1665年(寛文5)7月,寺院法度とともに発布。5条からなり,神事祭礼の励行,叙位,装束,神領の売買禁止,社殿の維持などを規定するとともに,神社と伝奏公卿の関係や吉田家による諸社への支配権の追認も行われた。のち同様の法令が1782年(天明2)と91年(寛政3)にも出されている。
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