江戸時代の銀貨の一種。丁銀(ちようぎん)の補助貨幣的な役割を果たし,その形状が小粒であったところから小粒銀・小玉銀とも呼ばれる。量目は1個1~10匁くらいであった。豆板銀には慶長豆板銀(慶長6年(1601)鋳造)のほか,元禄豆板銀(元禄8年(1695)),宝永二ッ宝豆板銀(宝永3年(1706)),宝永三ッ宝豆板銀(宝永7年),宝永四ッ宝豆板銀(宝永8年),正徳・享保豆板銀(正徳4年(1714)),元文豆板銀(元文1年(1736)),文政豆板銀(文政3年(1820)),天保豆板銀(天保8年(1837)),安政豆板銀(安政6年(1859))の各種が見られる。江戸時代に銀1枚というときは43匁を意味したが,丁銀1枚が43匁未満のときには豆板銀を添えて43匁となし,これを紙に包み,包銀(つつみぎん)として用いる慣行が見られた。これは銀一枚包と呼ばれた。
執筆者:作道 洋太郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
江戸時代の銀貨。小玉(こだま)銀、小粒(こつぶ)ともいう。秤量(ひょうりょう)貨幣で、形は丸い小塊。重さは5匁(18.75グラム)前後のものが多いが、1匁(3.75グラム)から10匁(37.5グラム)内外まで一定していなかった。豆板銀は銀座において、丁銀(ちょうぎん)と同じ品位でつくられ、「常是(じょうぜ)」「宝」および大黒(だいこく)像のうち一つが極印(ごくいん)として打たれた。豆板銀は丁銀の補助的役割を果たし、丁銀が封包(ふうづつみ)されるとき、その定量を満たすのに利用された。のちに計数貨幣の五匁銀、二朱銀、一朱銀がつくられると、通貨としての重要性が失われた。
[滝沢武雄]
小玉銀(こたまぎん)とも。上方では小粒(こつぶ)とも。江戸時代の秤量(しょうりょう)銀貨の一種。銀座において丁銀とともに同じ品位で鋳造された。形状は小型の粒状で,重量は不定ながら5匁前後のものが多く,包銀には掛目の調整のために封入された。丁銀同様「寳」や大黒天像などの極印(ごくいん)が打たれたが,極印は総じて小型である。慶長銀から安政銀に至るまでたびたび改鋳されたが,1772年(安永元)の南鐐(なんりょう)二朱銀発行以来,金貨の単位をもつ計数貨幣が銀貨の主流となり,秤量銀貨の相対的地位は低下した。1868年(明治元)に貨幣としての使用が停止された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…1858年(安政5),日米修好通商条約が締結され,そのなかで外国貨幣の同種同量での通用が承認された。幕府は翌6年に貨幣の改鋳を実施し,同年6月に安政小判・同一分金・同二朱銀を,ついで8月に安政一分銀を,さらに12月に安政丁銀・同小玉銀(小粒銀・豆板銀)を発行した。そのほかに,安政3年6月には安政二分金を鋳造した。…
…徳川氏は1601年(慶長6)大黒常是の極印銀を採用して彼を銀座の吹人に任用した。慶長の丁銀,豆板銀がこれである。当時は諸藩,諸地域で鋳造された極印銀も多く,灰吹銀とともに通用していて,その範囲や量は判金,玉金などより広くまたはるかに多い。…
…江戸幕府の銀貨鋳造所をいう。金座が本来は小判,一分金の鋳造所であったのと同様に,銀座も本来は秤量貨幣としての丁銀(ちようぎん),豆板銀の鋳造所であった。はじめは幕府の留守居年寄に,1689年(元禄2)からは勘定奉行に属した。…
…江戸時代の銀貨の中心をなすもので,形状はナマコ(海鼠)形の銀塊,量目は43匁(1匁=3.75g)内外であった。金貨の大判,小判,二分金,一分金,二朱金,一朱金が額面の明示されている定位貨幣であったのに対して,銀貨の丁銀,豆板銀(小粒銀)は使用のつどその量目を調べなければならない秤量貨幣であった。豆板銀は1個1~10匁くらいで丁銀の補助的役割を果たした小額銀貨であった。…
※「豆板銀」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新