赤田村
あかだむら
[現在地名]刈羽村赤田町方・赤田北方・枯木
新屋敷村・大塚村の東。南は飯塚村、東は山地で小黒須村(以上現柏崎市)、北は井岡村、大坪村(現西山町)。集落は南に赤田町方、北に赤田北方、両集落西方に枯木がある。伝えによれば、嵯峨天皇の皇子源融の末孫渡辺源次兵衛定は、元久二年(一二〇五)八月鎌倉幕府に伺候し、赤田保の地頭職に任ぜられて赤田城主となる。のち兵衛尉等のとき赤田氏を称し、等の五男源太告のとき斎藤氏に滅ぼされて一族離散したという(刈羽村物語)。斎藤氏については、寛正二年(一四六一)六月一二日の斎藤清信田地売券写(善照寺文書)の裏打紙端裏書に「増珍従赤田斎藤清信買取証文」とみえる。また文明一〇年(一四七八)一二月一八日の善照寺増珎寺領段銭等注文(同文書)に伝えるところによれば、当時善照寺の寺領となっていた原田保内の地は、詫間氏から京都伊勢氏へ売却され、応永(一三九四―一四二八)の頃まで「自京都所務有」の地であったが、斎藤野州なる者が買得して、斎藤清信に譲り、その子定信に相続した斎藤氏の惣領分で、のち善照寺に売却されたという。
赤田村
あかだむら
[現在地名]富山市赤田
神通川の支流土川の右岸に位置し、北は袋村。北西端を南北に飛騨街道が通る。中世は太田保の中心的位置にあった。正中二年(一三二五)一一月日の大江顕元申状案(金沢文庫古文書)に「亡父覚一拝領之地越中国太田保内赤田村者、申付中務丞元長」とあり、大江氏の支配下にあったようである。赤田地内の浄土宗阿迦陀寺には室町期作の本尊阿弥陀如来坐像と鎌倉期作の秘仏(像高六六センチ)観音像があり、墓地(旧地から移転)には南北朝期の五輪塔が多い。字神宮寺割は現堀川町(近世の上掛尾村)にある神宮寺に由来するのであろう。
赤田村
あかたむら
[現在地名]那覇市首里赤田町一―三丁目
崎山村の北、首里城継世門(赤田御門)の東に位置する。南風之平等のうち。崎山村・鳥小堀村とともに首里三箇とよばれた。首里古地図には六三の屋敷地のほか、中央部・東側には田もみえる。北西部には松沙庵・牟尼庵・慈雲庵・臥雲軒が一列に連なり、南風の佐事のあむ・首里ノ大あむしられ・御待所、南東のはずれには金城川に架かる下原橋と思われる橋も確認できる。
赤田村
あかだむら
[現在地名]本荘市内越 赤田
東に東光山・笹森山・黒森山があり、東から西に赤田川が流れ、西に耕地が開ける。東は大倉沢村・小栗山村(現由利郡大内町)、西は中野目村、南は山田村、北は岩谷町村(現大内町)と接する。
慶長一七年(一六一二)の由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)では内越郷に属している。宝永元年(一七〇四)の石井七郎左衛門宛加増目録に赤田村の百姓四名分の高三〇石が加増されている。正徳二年(一七一二)の中野太五左衛門四ケ村御智行高覚に赤田村の名があげられ、「高弐拾四石六升四合壱勺 此物成拾弐石五斗壱升三合四勺 外ニ弐斗五升三勺右口米 同三石七斗五升四合諸役代 三口〆拾六石五斗壱升七合七勺、御役銀八匁三分三厘四毛」とあり、中野太五左衛門の知行地であった。
赤田村
あかだむら
[現在地名]大井町赤田
南に浅間山があり、北境を中村川が流れ、西は山田村、東は鴨沢村(現中井町)と接する。天正一八年(一五九〇)四月日の豊臣秀吉掟書(県史三)に「赤田」とある。
近世は慶長三年(一五九八)まで小田原藩領、寛文四年(一六六四)まで旗本米倉領、以後幕府直轄領となり、同九年幕府は小田原宿助成のため直轄領の村々を指定して年貢米を小田原宿に送ったが、当村も御伝馬替地村として以後小田原藩領と同じ扱いとなった(「御引渡記録」県史四)。
赤田村
あかだむら
[現在地名]大原町赤田
吉野川を挟んで立石村の西に位置。対岸南は壬生村。文明一四年(一四八二)八月一〇日の広峯神社(現兵庫県姫路市)社家林家長の檀那村書(肥塚家文書)に「あかたの形部」とあり、天文一四年(一五四五)二月吉日の同社社家肥塚氏の檀那村付帳(同文書)には「あかた一ゑん」とみえる。正保郷帳に村名がみえ、田二三四石余・畑七一石余。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳では改出高五六石余・開高七石余、村位は上。
赤田村
あかだむら
[現在地名]長野市信更町赤田
東は石川村、南は塩崎村、西は田之口村、北は有旅村と山野または耕地で境する。村は南向きの緩い傾斜で前方は聖川があって水田地帯となっている。現県道篠ノ井―新町線が通っている。
隣村田之口村とともに、「和名抄」記載の更級郡清水郷に属したといわれる。中世は坂城葛尾城主村上氏領。
赤田村
あかだむら
[現在地名]板柳町赤田
東は五所川原堰、西は三千石堰、南は三千石村、北は石野村に接する。
貞享四年(一六八七)の検地帳に田方三二町七反三畝九歩、畑方二四町四反一畝八歩、田畑屋敷合せて五七町一反四畝一七歩、村高四四〇・九三石、百姓七三人、郷蔵屋敷がみえる。「平山日記」に元禄三年(一六九〇)には赤田組に属し、村位は上とあり、「中福村ハ赤田と成」とある。文政二年(一八一九)の卯年書上之表(板柳町郷土史)によると、人数一一四、戸数一五、うち百姓七、高無八、庄屋助之丞、五人組甚右衛門とある。
赤田村
あこだむら
[現在地名]岡山市赤田・清水一丁目
清水村の東にあり、南辺を山陽道が通る。慶長一〇年(一六〇五)備前国高物成帳(備陽記)の幡郷に村名があり、寛永備前国絵図では高三二〇石余。「備前記」によれば平場の集落で、枝村として石田をあげる。「備陽記」では田畑二二町三反余、家数四五・人数二二二。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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