車町(読み)くるままち

日本歴史地名大系 「車町」の解説

車町
くるままち

[現在地名]大和郡山市車町

車町は豊臣秀長時代に形成され、内町に編入されている。枝町であるが、地子は免除された。車・輿などの同業者の町であろう。

車町
くるままち

[現在地名]南区南船場みなみせんば三丁目

しお町四丁目の西にある両側町栴檀木せんだんのき筋少し西から心斎橋しんさいばし筋まで、間に丼池どぶいけ筋が通る。明暦元年(一六五五)大坂三郷町絵図では東部が「山伏町」、西部が「しはい町」(芝居町)となっており、大坂町之内町名替り候写には「山伏町芝居町壱丁成ル 車町」とあり、さらに水帳奥書に車町と出るのは延宝七年(一六七九)なので(南区志)、同年に先の二町が合体して車町になったと考えられる。

車町
くるままち

[現在地名]鹿児島市上本町かみほんまち大竜町だいりゆうちようなど

恵比須えびす町の北に位置し、北は下竜尾しもたつお(武家屋敷)、東は地蔵じぞう(栄町)に続く(鹿児島県地誌)かん町六町の一。「倭文麻環」によれば、古くは廓町と称したと伝える。本御内もとみうちの城(内城)が築かれたとき恵比須町のみでは市町が狭いとして、廓町を立てたという。町名は本御内の廓内にかかわることに由来するという(同書)

車町
くるまちよう

[現在地名]静岡市車町・金座町きんざまち馬場町ばばんちよう茶町ちやまち一丁目

駿府城の北西、城下横筋(横町)第九行東端の両側町。東は馬場町、西端は縦筋(縦町)第二行の上魚かみさかな町・茶町一丁目と交差する。北側に一向宗(現真宗大谷派)願勝がんしよう寺、南側町裏に真言宗守源寺がある(以上、町方絵図)徳川家康が駿府在城時に牛車を引かせるため京都鳥羽とばから四人、山城伏見から三人の牛飼をよんで居住させたのが町名の由来という(駿河記)。貞享三年(一六八六)の時之鐘鋳直集銭帳(県立中央図書館所蔵文書)によると、家数は丁頭家一・本家三四半・借家二〇。

車町
くるまんちよう

[現在地名]岐阜市本町ほんまち

鍛冶屋かじや町の西に位置する東西に延びる両側町。北方を長良川が南西流し、西は七曲ななまがり町に至る。岐阜町四四町の一で、承応町絵図に町名がみえる。岐阜由緒書(小林文書)では地子免許地反別六反四畝余。「増補岐阜志略」によれば町の長さ七九間余、家数五六。

車町
くるまちよう

京橋町の東、京橋町中央から東へ鐘木町まで通じる東西路を挟む両側町。城下町時代からの町家地区で、町としての成立も早く、南組の本町という格式を有している。伏見車方の京橋組仲間の車があった所で、伏見陸運の一大拠点となっていた。伏見車方は、京都の禁裏・仙洞・女院御所や公家方の御用米・二条城米・伏見奉行所用米などの米の運搬や、そのほか伏見浜で荷揚げされる雑貨の輸送に従事していた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の車町の言及

【芝】より

…そしてここを南北に通貫する東海道沿いに町々が連なっていた。南からたどると牛車による運送業者の居住する車町,村方から町場化した田町各町,魚貝類を将軍へ献納することで御菜浦とよばれ漁業関係者の多い本芝,金杉,新網各町が続く。いずれも1662年(寛文2)に代官・町奉行両支配地となる。…

※「車町」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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