軽部郷(読み)かるべごう

日本歴史地名大系 「軽部郷」の解説

軽部郷
かるべごう

和泉市の肥子ひこ町・くち町・小田おだ町・和気わけ町、泉北郡忠岡ただおか町の馬瀬まぜ北出きたいで高月たかつき地区など槙尾まきお川・松尾まつお川・牛滝うしたき川の下流域にあった国衙領。古代の軽部郷(和名抄)の系譜を引く(和泉国和泉郡の→軽部郷

中世の軽部郷は南方と北方とに分れており、郷内に奈良興福寺末の久米田くめだ(現岸和田市)の免田が存在した。年代は不明であるが鎌倉時代に作成されたと推定される久米多寺免田注文(久米田寺文書)によれば、軽部郷南方に八反九〇歩、北方に七反三〇歩、合計一町五反一二〇歩の免田が記載されている。しかし、この久米田寺免田については、承久の乱後の新補地頭の設置を機に、地頭米の賦課をめぐって紛糾することがあった。そもそも久米田寺の免田は、和泉国和泉郡の六ヵ郷にわたって散在しており、国衙在庁官人作製の国前帳に基づいて免除される例となっていたが、宝治二年(一二四八)一二月五日の関東下知状(久米田寺文書)によれば、承久の乱前の免田であるか、乱後の新免であるかということで、久米田寺別当祐円と地頭代西生との間でもめている。とりわけ、軽部郷の新地頭波多野弥藤二左衛門尉は、前例を破って地頭米を課そうとしており、一方、久米田寺側は、六波羅での相論が決着しないうちに、「軽部郷の例」に従って、直接現地の百姓代表である刀禰から去文をとり所当米を徴収している。


軽部郷
かるべごう

和名抄」東急本は「加留倍」の訓を伝える。「和泉志」は上馬瀬かみまぜ北出きたいで高月たかつき(現泉北郡忠岡町)くち小田おだ和気わけ(現和泉市)の六村を郷域とする。肥子ひこ(現同上)も含まれるだろう。郷内に式内社はなく、槙尾まきお川・松尾まつお川・牛滝うしたき川が流れる平野部に位置する。

その郷名・地名から古代氏族として軽部君・和気公を復原しうる。「新撰姓氏録」(和泉国皇別)に倭日向建日向八綱田命の後と称する軽部は、雄略天皇に「加里乃郷」を献じて軽部君を賜姓されたとあるが、内容は明らかでない。


軽部郷
かるべごう

「和名抄」諸本に訓はない。郷域についてはすな川上流地域にあたる明治二二年(一八八九)成立の仁堀にぼり村・笹岡ささおか村・軽部かるべ(現赤磐郡吉井町仁堀地区から同郡赤坂町東軽部・西軽部に至る地域)に比定されている(「大日本地名辞書」「岡山県通史」など)。推定郷域内には式内社布勢ふせ神社(現在吉井町仁堀西布施谷に鎮座、もと同町中勢実にあり)かも神社(仁堀西)がある。


軽部郷
かるべごう

「和名抄」諸本に「加流倍」の訓がある。現都窪つくぼ清音きよね村軽部を中心に高梁たかはし川に東接する地域とみられる。藤原宮跡出土木簡に「(表)己亥年十月吉備(中カ)」「(裏)評軽部里□」がある。己亥年は文武天皇三年(六九九)で「評」は浄御原令制下の用字で、大宝令施行以後に郡字を用いるようになる。国名表記は「吉備中国」と考えられ、注目される。天平一一年(七三九)備中国大税負死亡人帳(正倉院文書)に、当郷籠箕里の戸軽部首三狩の戸口軽部首若売が四束、菅里の戸主軽部毛智の戸口軽部得万売が一九一束、戸主下道臣牛が一七二束を借りて死亡したとある。


軽部郷
かるべごう

「和名抄」所載の郷。同書高山寺本に「加流倍」の訓がある。「古事記允恭天皇段に「木梨之軽太子の御名代と為て、軽部を定めたまひき」とあり、軽部の郷名は養父郡のほか和泉・下総・常陸・下野・加賀・備前・備中の諸国にある。康治二年(一一四三)八月一九日の太政官牒案(安楽寿院古文書)によると養父郷にあった「水谷神宮寺」の四至のうち西限は「山上峯并軽部郷堺」で、軽部郷の東は養父郷に接していた。


軽部郷
かるべごう

「和名抄」所載の郷で、同書高山寺本など諸本とも訓を欠く。比定地も未詳であるが、和泉国和泉いずみ郡軽部郷に加留倍の訓があることから、カルヘ、カルノヘであろう。


軽部郷
かるべごう

「和名抄」東急本・高山寺本ともに訓を欠く。同書の和泉国和泉郡・但馬国養父郡などの軽部郷には「加留倍」「加流倍」の訓が付されている。軽部は允恭天皇の皇子木梨軽皇子の名を付して設置された名代の部で、軽部郷および軽部姓は下野・和泉・但馬・備中・下総・備前・山背・摂津に確認される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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