奈良時代、法相(ほっそう)宗の僧。大和(やまと)国(奈良県)高市(たかいち)郡の人。俗姓は百済(くだら)王の子孫市往(いちき)氏(または阿刀(あと)氏)。両親が観音菩薩(かんのんぼさつ)に子授けを祈ったところ、柴垣(しばがき)の上に置かれていたという。出家して法相宗の第三伝智鳳(ちほう)(生没年不詳)に教えを受け、703年(大宝3)僧正に任ぜられ、仏教界の最高責任者となった。とくに興福寺系法相宗の中心をなし、社会事業に活躍した行基(ぎょうき)、法相宗第四伝となった玄昉(げんぼう)、華厳(けごん)宗を開いた良弁(ろうべん)、このほか宣教(せんきょう)(生没年不詳)、隆尊(りゅうそん)(706―760)など多くの弟子をもち、日本法相宗の実質上の開祖とさえ評価する学者もいる。竜蓋寺(りゅうがいじ)(岡寺)、竜聞(りゅうもん)寺、竜福寺、竜泉寺、竜象寺など五箇竜寺の開山で、元正(げんしょう)・聖武(しょうむ)天皇の代に宮中の内道場に仕え、その功により市往氏に岡連(おかのむらじ)の姓を賜った。
[田村晃祐 2017年6月20日]
奈良時代初期の高僧。俗姓市往(いちき)氏,大和高市郡の人。義淵の出生については,次のような伝承がある。父母には子どもが無く,多年観音に祈請したところ,ある夜柴垣の上に白帳に包まれて泣く小児を得て,これを育てた。天智天皇はそのことを聞き,岡宮で草壁皇子とともに養育したという。後に出家して法相(ほつそう)を学び,ついで岡宮を与えられ,寺に改めて竜蓋寺とした。これが岡寺である。また俗に,竜門・竜福など〈竜〉字のつく五箇竜寺を造ったという。699年(文武3)その学業を褒められ,稲1万束を与えられ,703年(大宝3)僧正に任ぜられた。そして727年(神亀4)に聖武天皇は,先帝の時から内裏に供奉した功績を賞し,市往氏を改めて岡の連(むらじ)の姓をその兄弟に与えた。翌年10月20日没したが,治部省の官人が喪事を監護し,糸綿等の賻物(ふもつ)を授かる破格の処遇であった。現在,岡寺に円満穏和な表情をたたえた義淵の木像が襲蔵されている。
執筆者:中井 真孝
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