改訂新版 世界大百科事典 「邪馬台国論争」の意味・わかりやすい解説
邪馬台国論争 (やまたいこくろんそう)
2~3世紀の日本列島の中にあった邪馬台国をめぐる学問的議論。この論争の中心は,邪馬台国がどこにあったのかという問題である。邪馬台国の国名,距離,国家の性格,女王卑弥呼の人物像などの論争もあり,日本古代史の研究の中にあっては,最大かつ多彩な論争として注目されており,学者のみならず古代史に興味をもつ一般の人々による議論の参加があって特異な論争ともなっている。古くには,《日本書紀》神功皇后摂政39年条などが《魏志》を引用して〈倭の女王〉のことにふれているように,邪馬台国を畿内大和とし,卑弥呼は神功皇后であると暗に考えられていたが,邪馬台国は,大和ではないとする考え方がみられるようになるのは,近世に入ってからであった。
邪馬台国を筑後国山門(やまと)郡に最初に比定したのは新井白石であった。新井は,はじめは伝統的解釈にしたがって,邪馬台国を大和国としていたのであるが,対馬国以下,狗奴(くな)国にいたるまでの倭の諸小国を,すべて九州内の地名に比定していたので,邪馬台国だけを九州から切り離して位置づける不合理さに気づいて,邪馬台国を筑後国山門郡とするようになったのであろう。邪馬台国九州説の中でもっとも有力な筑後国山門郡説は,新井によって先鞭がつけられたのである。ついで邪馬台国九州説を論じたのは,本居宣長であった。本居は,神功皇后が卑弥呼であるならば,魏へ〈屈辱的〉な朝貢をするはずはないという立場から,邪馬台国は大和国ではなく,〈熊襲の類〉の国であって,魏への朝貢は,女王=神功皇后の名をかたって,〈熊襲の類〉が私的に行ったものであると強調した。本居の邪馬台国九州説は,なお神功皇后とのかかわりから抜け切ってはいないが,《魏志倭人伝》に邪馬台国までの日程として記されている〈水行十日陸行一月〉とあるのを取りあげて,邪馬台国大和説に批判の目をそそいだのは,傑出した解釈であった。本居のこの論の及ぼした影響は大きく,鶴峰戊申や近藤芳樹らによって本居説は深められ,近藤は,さらに〈熊襲の類〉を,肥後国菊池郡山門郷とする新しい説を提唱した。こうした中で伴信友のみは,邪馬台国大和説を堅持して譲らなかった。しかし,本居説の影響は,明治にも及び,星野恒は,新井説とは無関係に邪馬台国山門郡説を打ち出し,卑弥呼は,山門県の田油津媛の先代の人であろうと論じて,卑弥呼が神功皇后ではないことを明確にした。これを受けて,久米邦武は,邪馬台国山門郡説を支持し,〈邪馬台の考証時代は既に通過したり,今は其地を探験すべき時期に移れり〉と喝破した。
邪馬台国論争の火ぶたは,1910年に白鳥庫吉の邪馬台国九州説,内藤湖南の大和説によって切られた。白鳥は〈邪馬台国への道〉,すなわち里程論や日程論を精緻に展開して,邪馬台国の領域を北九州全域に求め,その都を肥後国内に求めた。一方内藤は,《魏志倭人伝》の〈本文批判〉を重視して,邪馬台国が大和であることを主張した。そして卑弥呼は,倭姫命であるという新説を提出した。白鳥と内藤との間には,それぞれの説をめぐっての論戦があったが,白鳥説を補強するかたちで邪馬台国九州説に関する論陣を張ったのは橋本増吉であり,他方,内藤説を支持しながら卑弥呼を倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)に比定し,その墓は奈良県桜井市箸中にある箸墓(はしはか)古墳であるとしたのが笠井新也であった。この間,富岡謙蔵や梅原末治らの銅鏡,および考古学的遺物からみた邪馬台国への言及があって,邪馬台国大和説は大きく膨らんだ。その後,邪馬台国問題は,単にその所在論にとどまることなく,邪馬台国の社会へも目が向けられるようになり,卑弥呼が魏の皇帝に献上したという〈生口(せいこう)〉の性格をめぐる論争が展開されて,邪馬台国論争は,大きな広がりをみせることとなった。
しかし,日本古代にかかわる歴史教育は,邪馬台国論争とは,まったく無縁なかたちで行われるという当時の政治的な状況の中で,一般の国民は,ほとんど邪馬台国の名称さえ知らないまま第2次世界大戦を戦い,そして敗れた。敗戦後の学問・言論の自由,研究の活発化にともなって,邪馬台国問題がひろく国民の前に立ちあらわれ,邪馬台国論争は,以前にも増して激烈なものとなった。
邪馬台国の国家としての性格をめぐる論争に限っても,邪馬台国九州説の立場に立つ藤間生大(とうませいた)の連合国家論,井上光貞の原始的民主制国家論,それに対する大和説による上田正昭の古代専制国家萌芽論など魅力的な論争が花開いて,今日に至っている。邪馬台国は,北九州か,それとも大和か,その所在をめぐる論議は,いまなお決着がついていないが,《魏志倭人伝》の〈史料批判〉と,今後の考古学的成果とが論争終息への鍵となるであろう。
執筆者:佐伯 有清
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報