日本歴史地名大系 「都於郡城跡」の解説
都於郡城跡
とのこおりじようあと
建武四年五月四日、日向国国大将畠山直顕は南朝方の伊東祐広(伊東家庶家木脇氏)らを誅伐するため、日下部盛連に一族を率いて「都於郡向城」に馳参ずるよう命じている(「畠山直顕軍勢催促状」郡司文書)。文明六年三州処々領主記(都城島津家文書)によれば、
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
建武四年五月四日、日向国国大将畠山直顕は南朝方の伊東祐広(伊東家庶家木脇氏)らを誅伐するため、日下部盛連に一族を率いて「都於郡向城」に馳参ずるよう命じている(「畠山直顕軍勢催促状」郡司文書)。文明六年三州処々領主記(都城島津家文書)によれば、
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