都於郡城跡(読み)とのこおりじようあと

日本歴史地名大系 「都於郡城跡」の解説

都於郡城跡
とのこおりじようあと

[現在地名]西都市鹿野田 高屋、荒武 都於郡など

三財さんざい川を西から北に望む標高約一〇〇メートル、比高八〇メートルの丘陵一帯にある中世の山城で、南北朝期祐持の代に日向国に下向し、以後同国で勢力を振るった伊東氏の主城として重きをなした。明確な築城年代は不明であるが、宮永氏系図写(県庁文書)実綱の項によれば、元徳二年(一三三〇)伊東祐重(祐持の子)が当城に下向し領主となったといい、都於郡常楽じようらく院の地神堂棟札によれば正平元年(一三四六)の築城とある。一方「日向記」では足利尊氏から建武三年(一三三六)一月の三条河原・勢多・宇治川の合戦での戦功を賞された伊東祐持が、先祖伝来の領地を安泰に治め南朝方の活動を鎮めよとの尊氏の命を受けてまず若党の小山田中務丞を日向に差遣わし、続いて祐持自身も下向、当城を構えて居城としたとする。

建武四年五月四日、日向国国大将畠山直顕は南朝方の伊東祐広(伊東家庶家木脇氏)らを誅伐するため、日下部盛連に一族を率いて「都於郡向城」に馳参ずるよう命じている(「畠山直顕軍勢催促状」郡司文書)。文明六年三州処々領主記(都城島津家文書)によれば、山東さんとう城の一つとして都於郡とみえ、伊東氏の老名は稲津野村・垂水・落合・宮田の五名であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「都於郡城跡」の解説

とのこおりじょうあと【都於郡城跡】


宮崎県西都市都於郡町にある城跡。別名、浮船城。市の南部、一ツ瀬川支流の三財(さんざい)川右岸の標高約100mの台地上に位置する。南北朝時代から戦国時代にかけて、日向(ひゅうが)中央部で勢力を誇った伊東氏の本拠となった城跡である。1337年(建武4・延元2)、伊東祐持が築城したといい、本城の周囲に出城を配して、その間に堀や池をめぐらせ、台地全体が要塞になっている縄張りであった。伊東氏は次第に勢力を拡大し、佐土原(さどわら)城などを築いたが、やがて薩摩の島津氏が日向に侵攻し、対立が激化した。16世紀後半、島津氏に大敗した伊東氏は、大友氏を頼って日向を脱出し、都於郡城は島津氏の支配するところとなった。江戸時代の初頭には島津氏の佐土原藩が成立し、一国一城令によって都於郡城は廃城になった。本城は本丸、二の丸、三の丸、奥の城、西の城の5つの曲輪(くるわ)から成り立ち、本丸の周囲には高さ約1mの土塁がめぐり、二の丸の東と北には約2mの土塁が残っている。曲輪の間は空堀で区切られ、曲輪からは多数の柱穴が検出されていることから、伊東氏在城の二百数十年の間に、何度も建て替えが行われたと考えられている。15~16世紀の輸入陶磁器の破片も出土しており、中世の城館遺跡を代表する城跡として、2000年(平成12)、国の史跡に指定された。JR日豊本線佐土原駅から車で約35分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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