デジタル大辞泉
「野崎村」の意味・読み・例文・類語
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のざきむら【野崎村】
- 浄瑠璃「新版歌祭文」上の巻後半の通称。お染久松劇の代表的場面。久松の許嫁お光が、お染と久松の離れられぬ仲を知って尼になる筋。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
野崎村
のさきむら
[現在地名]高山町野崎
新富村の東、蛇行しながら東流する肝属川南岸にある。対岸は新川西村のうちの唐仁町(現東串良町)。北部は沖積低地で水田地帯、南部は国見山系につながる山地で、この間の狭い台地縁辺部に集落が発達する。野崎の地名は、天道山の頂上に祀られる伊勢神社に毎年初穂を献じてきた荷前の転訛とも、国見山系の裾野という地形からきたともいわれる。
文永一一年(一二七四)六月一八日、肝付兼員(阿仏)から五男兼弘(兼広)に弁済使職が譲与された河東(東方)のうちで、東方の波見も含んでいたと考えられる(「肝付阿仏譲状」喜入肝付家文書)。肝付統譜(同文書)では兼広は「野崎ノ祖、又波見等」と記される。建武三年(一三三六)六月一七日の建部清吉軍忠状案(禰寝文書)によれば、同年五月二三日、清吉や禰寝郡司清成らは大将島津六郎らとともに「野崎村」に発向、肝付兼重与党と合戦したとある。この合戦は同じく島津貞久(道鑑)方だった莫禰次郎太郎入道円也の年月日欠の申状(肝付文書)などにも「野崎陣」「野崎合戦」とみえる。同四年四月日の和泉道悟軍忠状(旧記雑録)には「野崎城」での合戦の軍忠が注進されている。
野崎村
のざきむら
[現在地名]能登島町野崎
能登島の東端に位置し、南は小口瀬戸を扼して鹿渡島(現七尾市)に対し、東は富山湾を望む海辺の村。康永二年(一三四三)六月二一日の造外宮料日食米請取状写(天野文書)に「野崎村」とみえ、能登島御厨東方に属し、伊勢神宮の造外宮料の日食米七升八合が地頭自称分二町三反一の負担分として進納されていた。また延文二年(一三五七)七月二日には、天野遠政の所領能登島東方内「野崎飯浦両村」が預人を退けたうえで打渡されている(「惟宗経光打渡状」同文書)。文明一三年(一四八一)一月一一日の能登島八ヶ村公田田数注文(伊夜比神社文書)では、一宮気多社の二斗米(段銭)賦課の対象とされていた野崎領家分の公田数は三町五〇〇刈(うち神社地五〇〇刈)で、西方殿知行分。「野崎地頭」は七千一二〇刈で守護代の遊佐殿知行分。野崎村が下地中分によって領家・地頭分に分れたと思われる。また戦国後期頃の給人に遊佐・西方の両氏(「能登内浦村々給人注文写」諸橋文書)が知られ、天正三年(一五七五)六月の向田八幡宮造営棟札(伊夜比神社蔵)によれば、野崎村が旦那衆として奉加を行っていた。
野崎村
のざきむら
[現在地名]幸田町永野
菱池沼の排水路である広田川の砂州を干拓し、墓所山の麓に集落が立地する新村。東は菱池沼の開発地で額田郡鷲田村・岩堀村・西脇村三村の飛地と入会になる。西は山で上羽角村・下羽角村(現西尾市)と接し、南は野場村、北は永井村と接する。寛永二年(一六二五)に岡崎藩領幡豆郡永井村を親村として独立。野場村住民で永井村墓所山麓に新屋敷を所有した住民が、永井村地先の菱池沼開発地を所有して、岡崎藩主本多忠利の五ヵ定(永野区有)で独立した。
<資料は省略されています>
慶安二年(一六四九)検地は田反別二三町七反六畝余・畑屋敷反別七町一反二畝余、村高三五四石余。新切検地は万治二年(一六五九)から宝永二年(一七〇五)まで四回で九石余のみ(岡崎市史)。
野崎村
のざきむら
[現在地名]大東市野崎・野崎一―四丁目・寺川二―五丁目・北条一丁目
北条村の南に続き、村内を東高野街道が通る。西は深野池で干拓後は深野新田となる。讃良郡に属し古代条里制の同郡三条にあたり、条里制関係の壱の坪・四の坪・六の坪・九の坪などの地名が残る。地名は四条縄手合戦に関する、「醍醐地蔵院日記」貞和四年(一三四八)正月二日条にみえるのが早い例である。南北朝期および中世後期には当地はしばしば戦場となり、応仁の乱の頃には野崎城が築城されていた。
野崎村
のざきむら
[現在地名]三鷹市野崎一―四丁目・井口二丁目・大沢一丁目
下連雀村・上連雀村の南に位置し、東西に広い。もとは深大寺村(現調布市)続きの原野であったが、寛文(一六六一―七三)頃に開発され、元禄一〇年(一六九七)検地を受け村立てされた。幕府領。元禄一〇年の多摩郡世田谷領野崎村検地帳(吉野家文書)によると中畑一町九反余・下畑一〇町余・下下畑四町余・芝原二一町四反余・萱野二反余・屋敷地一町一畝余で、合計三八町七反余、高五五石余、名請人一七(うち屋敷持一四)。元禄郷帳では高五五石余。
野崎村
のさきむら
[現在地名]川辺町野崎
南西流する広瀬川(万之瀬川)の左岸に位置し、南西は両添村。村内を野崎川が南西流して広瀬川に合流する。島内・中福良・松尾城・迎方・荒殿・桑水流・楠原の集落がある。中世の松尾城跡が残る。嘉元四年(一三〇六)四月一四日の千竈時家譲状(千竈文書)によると、時家の三男熊夜叉丸に「のさきのむら」などが譲られている。年未詳七月一〇日の河辺郡知行目録写(長谷場文書)に「野崎之村 廿五丁」がみえ、伊集院頼久の知行地となっている。文亀元年(一五〇一)一二月二〇日の宝福寺宛の島津家老臣連署坪付(旧記雑録)に「河辺郡野崎名」とみえる。文禄四年(一五九五)九月三日の本田六右衛門尉宛の伊集院幸侃・本田三清連署証状(同書)では、野崎名の惣高は九四六石余とされている。
野崎村
のざきむら
[現在地名]天間林村野崎
中野川が坪川に合流する右岸にあたり、南を流れる七戸川とに挟まれた位置にある。東は花松村、南は中岫村、北東は坪川を隔てて附田村に接する。正保四年(一六四七)の南部領内総絵図にはみえず、天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付に村名がみえる。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」では「高二六石七斗余 郡分郷村高書上 一二石九斗余 四五石余 同 三五石余」とあり、馬三三疋を飼養。家数二一は本村一〇、支村中野崎一一である。享和三年(一八〇三)の仮名付帳には、家数一八で本村七、支村中野崎一一とある。
野崎村
のざきむら
[現在地名]稲沢市野崎町
東は福島村に接し、三宅川の東方にあり、「地高ニシテ水旱ノ傷」(徇行記)なく、本郷は南北に分れている。応永一六年(一四〇九)肥後信国が矢合村円光寺領田畑のを止めることを証した判物(妙興寺文書)に「内、野崎畠一段小」とみえる。天正一一年(一五八三)織田信雄が上洛のとき尾張国の手置として書置いた判物(生駒家文書)に野崎とみえ、天正末は家臣島田喜四郎の知行地であった(織田信雄分限帳)。
野崎村
のざきむら
[現在地名]長岡市千代栄町
長岡町の東方約三キロの平野のただ中にある。西は川崎村に通じ、南西方面には谷内村・中沢村、南は西片貝村に至る道が開かれている。天正村名考(温古之栞)に「野さき十八軒」と伝える。元和四年(一六一八)の長岡藩知行目録に村名がみえ、高一三五石余。正保国絵図では高一六五石余で元禄郷帳も同高。旧高旧領取調帳では高二五二石八斗余で天保郷帳と大きな変化はない。
野崎村
のさきむら
[現在地名]金木町喜良市 野崎
金木川と小田川に挟まれた金木台地上にあり、東は喜良市村、東南は小田川村、北は金木村に接する。
貞享四年(一六八七)の検地帳によれば、田方四七町四反七畝一四歩、畑方一二町三反六畝一七歩、田畑屋敷合せて五九町八反四畝一歩、村高四六四・六五三石、うち上田二六・六パーセント、中田四〇・七パーセント、下田三二・九パーセント、下々田なしとある。元禄三年(一六九〇)には金木組に属し、村位は下である(平山日記)。享保一三年(一七二八)には村高四五三・一二六石で、田方四一五・一一二石、畑方三八・〇一四石。
野崎村
のざきむら
[現在地名]羽茂町三瀬 野崎
東は赤岩村、西は大泊村、前面は海で野崎鼻の突出部がある。背後は台地。元禄七年(一六九四)の検地帳(三瀬区有)では田三町四反余・畑一〇町三反余。屋敷地は、海岸部と山地に地字中浜・石神・木戸口・丸畑・小浜・上の山・川内・くさきなどがある。「佐州巡村記」では、戸口は二八軒・一五四人。
野崎村
のざきむら
[現在地名]和歌山市野崎
名草郡に属し、北島村の西北に位置する。淡路街道が通る。近世の野崎組の名字の地であるが、主村というには遠く、慶長検地高目録(三一三石余)と天保郷帳を比較して村高にほとんど変化がみられないように、村域は狭く、特筆すべき産業はない。
野崎村
のざきむら
[現在地名]西春町野崎
東を九之坪村、南・西・北は沖村と接する。この村の付近から西北へかけて条里制の遺構が確認されている。寛文一一年(一六七一)には家数七、男三四人・女三六人(寛文覚書)。「徇行記」によれば、田は四町六反余、畑は五町九反五畝余で、概高一四五石余はすべて藩士勝野太郎左衛門の給知。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
野崎村
(通称)
のざきむら
歌舞伎・浄瑠璃の外題。- 元の外題
- 新板歌祭文
- 初演
- 天明5.5(大坂・粂太郎座)
野崎村
のざきむら
歌舞伎・浄瑠璃の外題。- 初演
- 明治19.11(大阪・角の芝居)
出典 日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典について 情報
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出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
世界大百科事典(旧版)内の野崎村の言及
【新版歌祭文】より
…1780年(安永9)9月大坂竹本座初演。和泉国の侍相良丈太夫の遺児で野崎村の百姓久作に養育された久松が,奉公先の大坂の質店油屋の娘お染との許されぬ恋のために心中するに至るという経緯を主筋とし,それに久松の主家の宝刀の詮議,悪人たちによる金の横領,久松の許嫁お光の悲恋等々のプロットを絡めて展開させたもの。先行する紀海音の浄瑠璃《おそめ久松 袂の白しぼり》や菅専助の《[染模様妹背門松]》を踏まえて脚色された作品で,お染久松物の代表作となっている。…
※「野崎村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」