金原明善(読み)キンバラメイゼン

デジタル大辞泉 「金原明善」の意味・読み・例文・類語

きんばら‐めいぜん【金原明善】

[1832~1923]実業家・社会事業家。静岡の生まれ。家産を投じて天竜川治水・護岸工事などを行った。のち、養蚕牧畜植林奨励銀行創設、免囚保護など多方面で活躍

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精選版 日本国語大辞典 「金原明善」の意味・読み・例文・類語

きんばら‐めいぜん【金原明善】

  1. 実業家。社会事業家。通称久右衛門。遠江静岡県)の人。父から代官職を継ぎ、家産を投じて天龍川の水防工事に尽力。また、植林、牧畜、養蚕を奨励し、出獄人の保護事業などにあたった。天保三~大正一二年(一八三二‐一九二三

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「金原明善」の意味・わかりやすい解説

金原明善(きんぱらめいぜん)
きんぱらめいぜん
(1832―1923)

実業家、社会事業家。遠江(とおとうみ)国(静岡県)長上郡安間(あんま)村(現、浜松市東区安間町)に久平(大地主、浜松藩代官)の長男として生まれる。父の後を継いで代官職を務めたが、維新後区長となった。1868年(明治1)以来天竜川治水工事の計画を独力で推進し、1874年天竜川通堤防会社を設立(翌1875年治河協力社と改称)、自邸内に水利学校を付設するなど、全資産をあげて治水事業に献身した。1881年の同社解散(政府が直轄)以後、残された資金で植林事業などの関連事業に着手し、機械製材、運輸をはじめ各種事業を計画、経営した。晩年は、郷里の村長として後進の指導にあたるかたわら、林業振興のための講演旅行を楽しみとした。生涯をかけた治水、植林事業は金原治山治水財団として、また出獄人保護事業は静岡県勧善会として残されている。

[浅野俊光]

『鈴木要太郎著『金原明善翁と其思想』(1937・金原翁伝記刊行会)』『御手洗清著『土の偉人金原明善伝』(1944・金鈴社)』『永野大七郎著『大地の父――金原明善伝記小説』(1944・東海書房)』『中道朔爾著、木原芳樹絵『金原明善』(1944・三省堂)』『和田伝著『金原明善――治水と植林の父』(1959・ポプラ社)』『金原治山治水財団編・刊『金原明善資料』全2冊(1968)』『金原治山治水財団編『金原明善』(1968・丸ノ内出版)』『鈴木要太郎著『世界伝記文庫13 金原明善』(1976・国土社)』『鈴木要太郎著『金原明善翁余話』(1981・浜松史蹟調査顕彰会)』『赤座憲久著、岩淵慶造絵『あばれ天竜を恵みの流れに――治山治水に生涯をささげた金原明善』(1993・PHP研究所)』



金原明善(きんばらめいぜん)
きんばらめいぜん

金原明善

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朝日日本歴史人物事典 「金原明善」の解説

金原明善

没年:大正12.1.14(1923)
生年:天保3.6.7(1832.7.4)
明治期の天竜川治水・治山家,実業家。遠江国長上郡安間村(浜松市)の豪農金原久右衛門軌忠(久平)と妻志賀の長男。幼名弥一郎,のち8代目久右衛門を襲名。明治5(1872)年より明善を名乗る。幕末に名主を務め,領主松平家の家政整理をする一方,横浜に売込商(輸出商)を出店したが失敗。維新後戸長,区長となったが,5年浜松県より堤防方付属を命ぜられたのを機に,宿願の天竜川治水事業に挺身することを決意し,7年天竜川堤防会社を設立。翌年改称した治河協力社総裁専務となり,水害が頻繁する天竜川河川改修と堤防修築,架橋などを計画した。11年には家産を処分し,評価額6万余円を治河協力社の基本財産に寄付し事業の発展を策したが,17年ごろから下流域諸村と紛議を生じ,また大河川治水対策が政府直轄工事となったため,18年治河協力社を解散。 治水事業から手を引いた明善は,第2の宿願である天竜川上流域の植林事業に着手した。御雇技師オランダ人I.リンドウから水源涵養林の必要を聞いたのが動機という。18年静岡県豊田郡瀬尻村(磐田郡竜山村)の官林600haに杉,檜苗270万本の栽植を農商務省静岡山林事務所へ出願して許され,以後13年間の植林は約760ha,292万本におよんだが,31年これを献納した。また,その周辺地で買収した山林1200haにも杉,檜400万本を植林し金原林と称したが,37年これも国に寄付して三方原の灌漑疎水事業のための金原疎水財団を設立した。 一方,東京の取引先銀行丸屋銀行の整理にかかわり,17年東里為替店を設立,のち33年金原銀行とした。また開通した東海道鉄道を利用して木材運送のための天竜運輸会社を設立するなど実業面でも活躍したが,社会事業としては13年以降刑期を終えた人の保護事業に関与し,静岡勧善会,浜松勧善会を設立,21年には出獄人保護会社を設立した。40~42年郷里の和田村村長。現在,生家近くに明善記念館(浜松市)がある。<参考文献>金原治山治水財団『金原明善』,同『金原明善資料』上下,鈴木要太郎『金原治山治水財団史』

(海野福寿)

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改訂新版 世界大百科事典 「金原明善」の意味・わかりやすい解説

金原明善 (きんばらめいぜん)
生没年:1832-1923(天保3-大正12)

明治・大正期の実業家。遠江国浜名郡の旧家に生まれた。天竜川の治水を念願し,明治維新後政府に請願するとともにみずからも多大の献金をなし,1875年には治河協力社を設立,その総裁専務となる。85年治水事業が政府直轄となってからは山林経営に着手,富士山麓植林,三方原開墾等を手がけ,後年には岐阜県林政にも参与した。実業家として金原銀行を創設(1940年三菱銀行に合併される),井筒屋の商号で各種香油販売を営む一方,私財を投じて出獄人保護事業や済生会事業にも力を注いだ。また和田村村長,静岡県議を歴任,その間各種公共事業に関係した。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「金原明善」の意味・わかりやすい解説

金原明善【きんばらめいぜん】

明治・大正の実業家,社会事業家。遠江(とおとうみ)国浜名郡の旧家の生れ。私費を投じて天竜川改修工事を始め,上流に大植林し,さらに模範林を経営。また三方原(みかたはら)開墾を手がける。実業面では金原銀行(1940年三菱銀行に合併)を創立し,井筒屋の商号で化粧品を販売した。晩年,山林を御料林に寄進し,私財を投じて出獄人保護事業や済生会事業に貢献した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「金原明善」の解説

金原明善 きんぱら-めいぜん

1832-1923 明治-大正時代の治山・治水家,実業家。
天保(てんぽう)3年6月7日生まれ。もと遠江(とおとうみ)(静岡県)安間(あんま)村の名主。明治7年から天竜川の治水,同川上流域の植林,三方原(みかたはら)疎水事業をすすめる。33年金原銀行を創設。刑期をおえた人の保護にもつくした。大正12年1月14日死去。92歳。幼名は弥一郎。

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367日誕生日大事典 「金原明善」の解説

金原 明善 (きんばら めいぜん)

生年月日:1832年6月7日
明治時代;大正時代の実業家
1923年没

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世界大百科事典(旧版)内の金原明善の言及

【更生保護】より

… 明治維新後,1872年の監獄則は刑余者で生計の見通しのない者を懲治場にとどめるという規定を定めたが翌年施行が停止され,1882年施行の〈改正監獄則〉が,刑期満限の後頼るべき所のない者はその情状により監獄の別房にとどめ生業を営ましめるとする別房留置の制度を発足させた。民間においては,金原明善が,1880年に獄中における説教を行うかたわら刑余者の保護も行った静岡勧善会を発足させ,88年には,川村矯一郎らとともに,出獄者を保護し再犯を予防する目的で静岡県出獄人保護会社を設立し,更生保護事業の先駆となった。別房留置の制度は財政上の理由もあって89年に廃止され,政府は有志の慈善者を奨励して保護会社を設立する等の方途を講じるように訓令した結果,各地に釈放者保護団体が設立された。…

※「金原明善」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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