日本大百科全書(ニッポニカ) 「銚子醤油」の意味・わかりやすい解説
銚子醤油
ちょうししょうゆ
下総(しもうさ)国(千葉県)銚子産のしょうゆ。醸造のおこりは、現在の「ヒゲタ醤油」の元祖といわれる田中玄蕃(げんば)が1616年(元和2)に、「ヤマサ醤油」の始祖浜口儀兵衛(ぎへえ)が1645年(正保2)に開業したと伝えられる。田中玄蕃は、摂津(せっつ)西宮(にしのみや)(兵庫県西宮市)の造酒家で当時江戸の海産物問屋であった真宜九郎右衛門(さなぎくろうえもん)より関西の溜(たまり)しょうゆの製法を伝授され、他方浜口は紀州広村(和歌山県広川町)の出身で、銚子荒野村で醸造した、と伝承される。ヒゲタの場合、その商標からみて、本格的な生産は1655年(承応4)以後のことであった。その後、銚子のしょうゆ醸造業はますます発展し、1753年(宝暦3)12人によって醤油仲間が結成されたが、そのうち儀兵衛、庄右衛門(しょうえもん)、重次郎(じゅうじろう)、理右衛門(りえもん)はそれぞれ「広や」を名のっている。彼らは紀州広村の出身者であり、関西のしょうゆ醸造技術を銚子に持ち込んだといってよかろう。銚子醤油仲間は1780年(安永9)18人、85年(天明5)9人、1821年(文政4)20人、40年(天保11)14人と年代の推移によりかなりの変動がみられる。一方、銚子の醸造石高(こくだか)をみると、1753年5073石余、54年6733石、80年8949石、1888年(明治21)1万7600石となっている。
近世初期の江戸市場では圧倒的に関西しょうゆが中心であり、銚子・野田のしょうゆが本格的に江戸市場に進出するのは宝暦(ほうれき)年間(1751~64)からである。1821年(文政4)には、江戸市場におけるしょうゆ125万樽(たる)のうち、123万樽が関東しょうゆであり、関西しょうゆはわずか2万樽にすぎなかった。江戸市場は完全に関東しょうゆにとってかわられた。関東しょうゆは早くから市場競争に勝つため品質の向上と廉価に努めた。それは単に輸送上の有利さのみにとどまらず、品質の面においても関東しょうゆが江戸における関西しょうゆを完全に駆逐したのである。
[川村 優]
『荒居英次著『銚子・野田の醤油醸造』(『日本産業史大系5 関東編』所収・1960・東京大学出版会)』▽『川村優他著『千葉県の歴史』(1971・山川出版社)』▽『常世田玲子著『醤油屋ばなし・海人がたり』(1980・崙書房)』