改訂新版 世界大百科事典 「長宗我部元親百箇条」の意味・わかりやすい解説
長宗我部元親百箇条 (ちょうそがべもとちかひゃっかじょう)
長宗我部元親・盛親父子が領国支配のため制定した分国法。《長宗我部氏掟書》ともいう。1596年(慶長1)11月15日に撰定,翌年3月24日発布された。同年6月の朝鮮出陣を考慮したものであろう。第1,2条には社寺の崇敬・修復のことを置き,ついで豊臣政権の推戴,侍・僧侶・商人・職人の分限・行儀・諸役,訴訟裁判・刑罰・財産・貢租・相続等に関する諸規定が列挙されている。他の戦国期の分国法と異なるのは,豊臣政権下の一大名の分国法であり,豊臣政権を〈公儀〉と呼んで推戴するほか,第47条の貢租法も1595年(文禄4)の豊臣氏の掟とほとんど同文である。また《相良氏法度》や《六角氏式目》などにみられる家臣団の大名牽制という側面は見られず,〈妻敵討(めがたきうち)〉〈喧嘩両成敗法〉のように著しく武断的,強権的な大名権力が強調されているのが特色である。一方,民政規定には,土佐の後進的状況に対応するものが多く,その面ではまさしく戦国法の色彩が濃厚である。
なお長宗我部氏にはこの総括的な分国法のほか,96年11月〈凡近習之輩可勤存条々〉23条,〈凡中間小者可相守条々〉9条,1597年3月1日〈侍分に対する規制〉22条,また諸奉行についての掟4編があった。ただ《土佐軍記》のみに見えるいわゆる〈天正式目〉は疑わしい。
執筆者:下村 效
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報