中谷村(読み)なかだにむら

日本歴史地名大系 「中谷村」の解説

中谷村
なかだにむら

[現在地名]鏡野町中谷

東は塚谷つかだに村・いり村・山城やましろ村、西は富東谷とみひがしだに村・富仲間とみなかま(現富村)余野上よのかみ(現真庭郡久世町)、南は宮部上みやべかみ(現久米郡久米町)、北は土生はぶ(現奥津町)に接する大村。年月日未詳の檀那村書(肥塚家文書)に「なか谷村」があり、中世末期には播磨国広峯ひろみね神社(現兵庫県姫路市)の檀那場であった。正保郷帳に高四五七石余、うち田方二〇三石余・畑方二五四石余とある。「作陽誌」に「此村寛永六年分為上村中村下村」とあり、中谷上村家数七七・人数四四五、中谷中村家数四四・人数二六四、中谷下村家数一八・人数一一六。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳では改出高八〇三石余、開高二七石余。文政元年(一八一八)の津山領郷村帳では三村合せて一千二九八石余。明治五年(一八七二)合併して中谷村となる。


中谷村
なかやむら

[現在地名]小谷村大字中土なかつち 中谷

ひめ川右岸に位置し、姫川に流入する中谷なかや川の谷に沿った狭長な村である。北部フォッサ・マグナの断層線にあり、泥岩・砂岩の地質や地下水などの関係から地滑りが頻発し、特に清水しみず山はその代表的なものである。

村名中谷は、寛永二年(一六二五)三月一三日付で松本領主戸田康長の臣新井次郎兵衛より発せられた馬寄せ柵木提出を命じた判物(矢口道衛氏蔵)の宛名に「中屋村」とあるのを初見とし、当時一般には、後の土谷つちや村・深原ふけら村とともに東小谷村とよばれていた。


中谷村
なかんたにむら

[現在地名]穴水町東中谷ひがしなかんたにあさひおか

川尻かわしり川水源地帯の谷間にあり、南西は川尻村、北は曾山そやま村。天正八年(一五八〇)南北なんぼく郷三六ヵ村のなかに「一、高四町一段三畝十歩之所中谷村」がみえる(「御供料寄進状」四柳文書)。領主の変遷はかじ村に同じ。土方雄久知行目録に村名がみえ、高一二四俵、うち荒三五俵で、残高の四割が百姓得分。正保郷帳では高六二石、田方三町一反・畑方一町余。


中谷村
なかだにむら

[現在地名]勝田町梶並かじなみ

真殿まどの村・右手うて村と併せ梶並中谷かじなみなかだに村を形成し、正保・天保両郷帳では梶並中谷村と記載される。しかし「東作誌」などでは三ヵ村とも庄屋を置く独立村扱い。分村年代は未詳。梶並川上流の山間に立地し、東は梶並東谷かじなみひがしだにの各集落、西は梶並西谷の各集落。天正七年(一五七九)と思われる一〇月三日付の竜門清兵衛宛吉川元春書状(美作古簡集)によれば、小早川氏側の元春が同月二日「梶並口」に到着している。


中谷村
なかだにむら

[現在地名]南国市中谷

くわかわ村の南に位置する山村。「土佐州郡志」は「廿枝郷戸山西之内也、去高知東北三里、東限流田奈路村中屋鋪、南距山、西限細佐恵多保、北限黒瀑大川、縦横拾五町許、(中略)其土赤雑砂」と記す。江戸時代後期には上倉あげくら郷の一村となる。

天正一六年(一五八八)の戸山分亀岩村西之内東之内地検帳によれば、近世の当村分は内題に「戸山西之内下中谷地検帳」「戸山西之内上中谷地検帳」と記される。下中谷は検地面積二町四反余で、うち直分九反余、下中谷六助の給地一町五反余。


中谷村
なかやむら

[現在地名]勝浦市中谷

平田ひらた村の南、夷隅いすみ川上流域に位置し、大多喜おおたき往還が通る。元禄郷帳新戸しんど村枝郷の頭注つきで村名がみえ、高一〇〇石。天和二年(一六八二)以降の領主の変遷は勝浦村に同じであったとみられる。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高一〇二石余、家数二六。文政一〇年(一八二七)の岩槻藩領村々書上帳では田四町七反余・畑二町二反余、新田高二石余・六反余、年貢は米二四石余・永一貫九六七文余と野手役の真木六四束。


中谷村
なかだにむら

[現在地名]東粟倉村中谷

後山うしろやま村の西に位置。北方の駒の尾こまのお山から南西に延びる尾根を小才こざい(小斎峠)で越えると長尾ながお引谷ひかだに(現西粟倉村)に至る。戦国期宇喜多氏の時代に後山修験の一二坊のうち中谷坊が置かれたことから村名があるという。正保郷帳に村名がみえ、田一二五石余・畑六五石余。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳では改出高三〇石余・開高二石余、村位は下。津山藩森氏断絶後は幕府領、延享二年(一七四五)因幡鳥取藩預、同四年常陸土浦藩領、寛政二年(一七九〇)幕府領、天保一三年(一八四二)播磨明石藩領(美作国郷村支配記)


中谷村
なかやむら

[現在地名]明和村中谷

東は新里につさと村、西は大佐貫おおざぬき村。近世初めは館林藩領。寛文郷帳では田方一一四石六斗余・畑方一〇一石四斗余である。天和二年(一六八二)の分郷配当帳では高二七三石一斗、全村が旗本小倉領となる。近世後期には館林藩領で、安政二年(一八五五)の「封内経界図誌」によると田高一二六石余(反別一二町余)・畑高一四六石余(反別一五町余)、年貢は五ヵ年の定免で、前年には米二七俵余・金一四両余を納めている。


中谷村
なかだにむら

[現在地名]香北町中谷

横谷よこだに村の北東、横谷川中流域に位置し、北東は谷相たにあい村。谷間から山腹にかけ標高三〇〇メートル内外の斜面に位置する。天正一六年(一五八八)の韮生谷地検帳は「自是中谷名先高二貫ト有」とし、中谷名一三筆一町五反五代(田分一町二反余・畠屋敷二反余)のすべてが永野源兵衛の給地とある。なお中谷名の最初に「有光分」とあるので、以前は有光氏が支配していたのであろう。土居屋敷や名本はみえない。「イノ口」「ヒノ口」の小字があり、面積の八割以上は水田化している。

元禄地払帳によると本田高は一五・一石、うち七石が吉田孫左衛門の知行地で残りは蔵入地。


中谷村
なかだにむら

[現在地名]出石町丸中まるなか

森井もりい村の西、国府こくふ道南側の山麓丘陵地にある。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名がみえ、高八九石余。出石封内明細帳によると拝領高八石余・改出高九石余、これらの内訳は屋敷一石余・麻畑一石余・田方四四石余・畑方四一石余、ほかに古新発高一石余。家数八・人数三三。


中谷村
なかたにむら

[現在地名]門前町西中谷にしなかたに

切挟きりばさみ村の南、仁岸にぎし川上流域山地に立地。正保郷帳では高四八石余、田方二町三反余・畑方九反。承応三年(一六五四)の村御印では同高、免三ツ八歩(能登奥両郡収納帳)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高五三石、免四ツ三歩、小物成は山役二四匁、鳥役一匁(出来)、鍛冶炭役五匁(出来)であった(三箇国高物成帳)


中谷村
なかやむら

[現在地名]利根町中谷

利根川と利根川の間に所在。西は福木ふくのき村。古くは内野うちの・外野とよばれた荒地であったが、寛永年間(一六二四―四四)に直江左子之助が開発した(北相馬郡志)。「各村旧高簿」によれば明治元年(一八六八)には旗本有馬内記の知行地五八・三二三三石、山城淀領五五・五三二七石のほか天領八・八一八石があった。


中谷村
なかたにむら

[現在地名]桜井市大字中谷

萱森かやもり村西北方に所在。近世の初め慶長郷帳には欠落。おそらく織田有楽(長益)領。元和郷帳には現れ、長益領で村高は七八・一二石。元和元年(一六一五)以後戒重藩(のち芝村藩)領となる。


中谷村
なかんだにむら

[現在地名]豊岡市中谷

大篠岡おおしのか村の北に位置し、東は峠越しに出石いずし三宅みやけ村に通じる。江戸時代の領主の変遷は立野たちの村に同じ。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名がみえ、高三四〇石。宝暦七年(一七五七)の但馬国高一紙でも同高。


中谷村
なかたにむら

[現在地名]天川村大字中谷

てんノ川右岸、沢原さわばら村の上流に立地。天川郷のうち。慶長郷帳では村高六三・三一石、幕府領(代官大久保長安)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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