東山天皇の皇子直仁(なおひと)親王を初代とする宮家。時に幕府は新井白石の建言を入れて,皇室の繁栄のため新宮家の創立をはかり,家領1000石を献じたので,1710年(宝永7)親王に一家創立の勅命があり,ついで閑院の宮号を賜った。その後典仁(すけひと),美仁,孝仁,愛仁(なるひと),載仁(ことひと)の各親王を経て第7代春仁王に及び,1947年同王が皇族制度改革により皇籍を離脱するまで230年余にわたり宮家として存続した。その間載仁親王に至る6代は世襲親王家として親王宣下を受け,また愛仁親王までの5代は実系をもって相続したが,愛仁親王に後嗣がなく,1872年(明治5)勅旨により載仁親王が伏見宮より入って第6代を継承した。なお光格天皇は第2代典仁親王の王子で,天皇は親王に太上天皇の尊号を宣下しようとしたが,幕府の反対により実現せず,1884年に至り,尊号と慶光(きようこう)天皇の諡号(しごう)が追贈せられた。
執筆者:武部 敏夫
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江戸中期、1710年(宝永7)に建てられた親王家。宮号下賜は1719年(享保4)。初祖は東山(ひがしやま)天皇の皇子直仁(なおひと)親王。一時中絶があったが再興され、1947年(昭和22)の新皇族令で臣籍降下するまで続いた。この宮家創設には、6代将軍徳川家宣(いえのぶ)の侍講新井白石(あらいはくせき)の献策が大きな役割を果たした。当時、世襲の親王家は伏見(ふしみ)、有栖川(ありすがわ)、京極(きょうごく)の3家に限られ、皇室、宮家とも嫡子以外の子女は出家することが慣習となっていた。家宣が将軍となるとまもなく、白石は、これは人情に反するもので、衰えていた時代の悪習であり、宮家創設を奏上することは当然のことであると献策し、家宣はこれをいれて朝廷に奏上し、宮家の創設となった。家宣は家領1000石を献じた。2代典仁(すけひと)親王の子兼仁(ともひと)親王は皇統を継ぎ光格(こうかく)天皇となった。5代愛仁(はるひと)親王に後嗣(こうし)がなく一時中絶したが、伏見宮家から載仁(ことひと)親王が入って再興され、載仁親王は明治から昭和期に活躍した。その子春仁王(純仁)に至って1947年(昭和22)臣籍に下った。
[林 亮勝]
東山天皇の第6皇子直仁(なおひと)親王(秀宮(ひでのみや))を祖とする宮家。世襲親王家の一つ。新井白石の進言と近衛基熙(もとひろ)の周旋により,1710年(宝永7)幕府は秀宮の宮家創設を認め所領1000石を献じ,18年(享保3)宮号が閑院宮と定まった。その後,5代愛仁(なるひと)親王に後嗣がなく,親王の母吉子(ちかこ)を家主同格として30年間宮家を存続させた。1872年(明治5)伏見宮邦家親王の王子易宮(たかのみや)が相続(のち載仁(ことひと)親王)。1947年(昭和22)7代春仁王のとき皇籍を離脱して閑院家となった。
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…ちなみに常磐井宮,木寺宮の初代は大覚寺統の皇統の嫡嗣と定められ,伏見宮は持明院統の嫡流とされた家柄である。伏見宮創立の後久しく宮家の新立を見なかったが,やがて桂宮,有栖川(ありすがわ)宮,閑院宮の3宮家が設けられた。桂宮は初め八条宮と称し,1589年(天正17)の豊臣秀吉の奏請によって,翌年正親町天皇の皇孫智仁親王が創立,淑子内親王まで11代にわたって存続し,その間宮号を初め京極宮,さらに桂宮と改めた。…
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