本来は任官といい、官職任命の政務。官に任ずることを除(じょ)といい、もとの官を去って新しい官につく意。中国で除目(じょもく)(除書(じょしょ))というのは任官の辞令であるが、日本では任官の行事を除目(じもく)と称した。定例のものに外官(げかん)除目、京官(きょうかん)除目があり、前者はおもに地方官を任ずるもので、中世以降は県召(あがためし)除目ともよばれた。儀式書では正月9日(のちには11日)よりとされるが、現実には一定していない。三夜にわたり行われる。後者はおもに中央諸司の官を任ずるもので、県召に対して司召(つかさめし)除目ともいい、初めは春の行事とされたが、のちには秋から冬に行われ、一夜が原則であった。除目は天皇親臨のもとに公卿(くぎょう)以下清涼殿(せいりょうでん)(摂政(せっしょう)が行う場合はその直廬(ちょくろ/じきろ))に参集し行われる。最高責任者は首席の大臣が務めるのが原則で、任官者を大間書(おおまがき)に記入していくので執筆(しっぴつ)という。
内容を外官除目についてみると、第一夜は四所籍(ししょのしゃく)といって内豎所(ないじゅどころ)などに勤める下級の職員の年労(勤続年数)の多い者や、年給(ねんきゅう)(天皇、院、宮、公卿などに毎年給せられる推挙権)による申請者を諸国の掾(じょう)、目(さかん)に任ずることから始めて、上位の任官に進む。第二夜には外記(げき)、史、式部、民部の丞(じょう)、左右衛門尉(じょう)など重要な官司の実務官を任ずる顕官挙(けんかんのきょ)なども行われ、第三夜では受領(ずりょう)や公卿の任官に及ぶ。なお大臣は、別に大臣召(だいじんめし)という儀式で天皇の宣命(せんみょう)によって任ぜられ、除目では任官されない。除目の作法は先例尊重の非常に繁雑なもので、公家(くげ)政治が実質を失っても朝廷の儀式として近世まで存続する。
儀式の次第は大江匡房(おおえのまさふさ)の『江家次第(ごうけしだい)』がとくに詳しく、『除目大成抄(じもくたいせいしょう)』『魚魯愚抄(ぎょろぐしょう)』『除目抄(じもくしょう)』なども重要な文献である。時代が下るが後醍醐(ごだいご)天皇の『建武年中行事(けんむねんじゅうぎょうじ)』は仮名書きであるのでわかりやすい。なお除目には臨時除目(小除目(こじもく))、女官(にょかん)除目、一分召(いちぶめし)(諸国の史生(ししょう)などの任官)などがあり、叙位がいっしょに行われる場合もある。また除目のあとに直物(なおしもの)が行われることが多い。
[黒板伸夫]
除は旧官を除いて新官に就任するの意,目は新官に就任する人名を書き連ねた目録の意。すなわち内外文武の諸官に任ずべき人を定めること,またその儀式をもいう。律令官職制度では,在京諸官司の官人を内官(ないかん)または京官,地方在勤のものを外官(げかん),また武器を携帯しないものを文官,携帯するものを武官とし,文官の人事は式部省,武官の人事は兵部省でつかさどったが,いずれも欠員が生じたときは,直ちに後任者を補任するたてまえであった。事務の渋滞を避けるためである。したがって本来は一定の日を定め(式日という),まとめて任官を行うことはできないはずであるが,実際は奈良時代より,ある程度これが行われていた。そして後になると県召(あがためし)除目,司召(つかさめし)除目の称が見られるようになる。県召除目は外官の任命を中心とするもので,外官除目ともいい,また春除目ともいう。平安時代中期の式日は,例えば《北山抄》や《小野宮年中行事》などでは正月9日を初日とする3日間であったが,後の《建武年中行事》では正月11日を初日とする。一方司召除目は内官の任命を中心とし,京官除目ともいう。平安時代中期には2月初旬に2日にわたって行われたが,しだいに遅れて院政期ころより秋に行われたので,秋除目の称も起こった。しかし両除目とも式日に行うのはまれであり,また京官除目で外官を,外官除目で内官を任ずることも多く,叙位が同時に行われることもある。これらの定期除目以外に,臨時に行われるものを臨時除目または小除目(こじもく)という。この中には,大嘗会の悠紀・主基の国司を任ずる大嘗会国司除目,立太子後の春宮坊職員を任ずる坊官除目や,賀茂祭供奉の諸官司の闕を補任する祭除目など,特別の呼名のあるものもある。なお後宮十二司の女官の人事は中務省が扱い,その任命を女官除目という。除目は,貴族から下級官人に至るまでの関心の的で,宮中で行われる除目の情報を聞いて一喜一憂するさまは,物語類などによく採り上げられている。
執筆者:今江 広道
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除書(じょしょ)とも。官職への補任者を決める政務。本来は旧官をのぞき新官に任じる目録の意で,具体的には任官簿(召名(めしな))のことであるが,転じて任官選考の議をさすようになった。春の県召(あがためし)除目,秋の司召(つかさめし)除目(京官除目)のほか,臨時除目や女官除目などがあり,それぞれ政務形態を異にしていた。選叙令によれば官人の選考には徳行・才用・労効が基準となったが,9~10世紀に年労・年給・成功(じょうごう)などによる補任が制度化され,中世に続く複雑な除目議の次第と作法が整えられていった。一方この頃から貴族官人層の昇進コースが形成され,官職による得分の格差も大きくなったため,どのような官職につくかが重要な問題となり,県召除目はとくに人々の注目を集めるようになった。
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