歌道・蹴鞠の家。藤原道長の第6子権大納言長家(ながいえ)(1005-64)が醍醐(だいご)天皇の皇子兼明(かねあきら)親王の邸宅御子左第を伝領して御子左大納言と呼ばれ,以後その家系を御子左家といった。長家の曾孫に俊成(としなり)が出て六条家と対抗し,その子の定家があらわれるにおよび,歌の家としての立場を確立する。一族には寂蓮(じやくれん),俊成女,阿仏尼(あぶつに)など優れた歌人が多い。定家の後,その子の為家が継ぎ穏健正雅の風を立て,六条家を圧倒して歌壇の勢力を一手に握る。さらにその子為氏(ためうじ),為教(ためのり),為相(ためすけ)は領地の争いをめぐって二条家,京極(きようごく)家,冷泉(れいぜい)家の3家に分かれ,ひいては歌壇の主導権を争って歌風の上で対立することともなるが,いずれも歌の宗家として世に重んじられた。勅撰和歌集21集のうち,第7の《千載和歌集》以後は,《風雅和歌集》《新続古今和歌集》の二つを除き,すべてこの家系の人々,とくに二条家の人々を中心に編まれたことが象徴するように,御子左家は各家に分かれてのちも歌の家として和歌文学史上に大きな足跡を残した。なお為家は蹴鞠にも秀で,その流れは御子左流といわれて飛鳥井(あすかい)流と並び世に重んじられた。
執筆者:新井 栄蔵
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御堂(みどう)関白藤原道長の六男の権大納言(ごんだいなごん)長家を祖とする家系の称。長家が醍醐(だいご)天皇の御子、左大臣兼明(かねあきら)親王邸を伝領したことによる。平安末期に六条家の清輔(きよすけ)・顕昭(けんしょう)に拮抗(きっこう)した俊成(しゅんぜい)以降、定家(ていか)・為家(ためいえ)と連続して勅撰(ちょくせん)集撰者となり歌壇の中心的指導者となったところから、歌道師範家としての「御子左家」の権威が確立した。為家の子孫は二条、京極(きょうごく)、冷泉(れいぜい)の三家に分立したが、嫡流の二条家が南北朝期の為定以降権威づけに「御子左」を名のったもので、俊成・定家の代にさかのぼって用いるのは近代に入ってからの便宜的呼称である。
[松野陽一]
藤原氏。藤原道長の第6子長家の後裔。御子左の称は,長家が醍醐天皇の皇子兼明(かねあきら)親王の御子左第を伝領したことによる。平安末~鎌倉前期に有名な歌人の俊成(としなり)とその子定家(さだいえ)が現れ,歌の家として確立。以後,この流れはながく歌壇に君臨した。定家の子為家は蹴鞠(けまり)にもすぐれ,その流れは御子左流といわれた。鎌倉後期に為家の3人の子が家領をめぐって争い,嫡流の二条,庶流の京極・冷泉(れいぜい)の3家にわかれた。二条・京極両家は南北朝期までに断絶し,現在冷泉家のみ残る。
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