願泉寺(読み)がんせんじ

日本歴史地名大系 「願泉寺」の解説

願泉寺
がんせんじ

[現在地名]貝塚市中

貝塚寺内の中心寺院で、旧紀州街道(現府道堺―阪南線)東側の市街地に位置する。浄土真宗本願寺派、山号金凉山、本尊阿弥陀如来貝塚御坊かいづかごぼうと通称する。天正一五年(一五八七)富田頼雄が記した貝塚寺内基立書(薬師家文書)によると、貝塚の海浜には古くから一宇の草庵があり、行基が開いたと伝えていた。応仁年中(一四六七―六九)本願寺八世蓮如が紀伊・和泉布教時に同庵に滞留したとも伝えられたが、永年無住であったため、京都の落人右京坊を紀州根来ねごろ寺より住持として迎えたという。この右京坊が後の卜半斎了珍で、入寺は天文一四年(一五四五)といわれ、僧侶・門徒がともに同行として念仏を修して自治的結合を示した。天文一九年これらの同行は草庵を再建し、開基仏である阿弥陀如来絵像(寺蔵)を本願寺第一〇世証如より下付された。僧俗一体の惣的結合はやがて寺内を形成する運動に展開し、天文二四年貝塚は本願寺下の寺内として取立てられた。しかし織田信長石山いしやま本願寺(跡地は現東区)との間で起こった石山合戦の際、当寺内も信長の攻撃を受けて天正五年に草堂人屋残らず破却された。天正八年石山合戦が終結したのに伴って離散した住民は貝塚に戻り寺内を復興、八間四面の本堂を建立した。この堂を板屋いたや道場と称し、天正一〇年卜半斎は豊臣秀吉から貝塚を寺内として承認されたという(前掲寺内基立書)

石山合戦後、本願寺の寺基は紀州鷺森さぎのもりへ移ったが、「宇野主水日記」天正一一年七月四日条に「紀州ヨリ御門跡ヲ始申、御女房衆悉御船にて貝塚へ御上着、御開山無御恙御渡海」とあるように、本願寺第一一世顕如教如父子らは祖師像を奉じて貝塚へ移転、これより二年余、当寺が本願寺となる。

願泉寺
がんせんじ

[現在地名]浪速区大国二丁目

浄土真宗本願寺派。日下山と号し、本尊は阿弥陀如来。寺伝によると推古天皇一一年永証の開基。永証は小野妹子の子で多嘉丸と称し、聖徳太子の物部守屋征討に加わって功があり法名を授与されたといい、また太子が四天王寺(現天王寺区)を造立する際、諸国から集まる木材の運搬を容易にするため運河を開削したとも伝える。建久年間(一一九〇―九九)二一世秀意の時、天台宗に帰属、木津山無量寿むりようじゆ寺と称し、二七世浄教(のち乗教)が本願寺八世蓮如に帰依し浄土真宗に改宗。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「願泉寺」の意味・わかりやすい解説

願泉寺 (がんせんじ)

大阪市浪速区にある浄土真宗本願寺派の寺。山号は日下山。もと天台宗で無量寿院と称した。創建は,603年(推古11)聖徳太子が四天王寺建立のとき,小野妹子の八男多佳麿が今の鼬(いたち)川を開削して材木を運んだが,のち剃髪して永証と号し,推古天皇より無量寿院の号を賜ったと伝える。27世乗教が真宗に改め,1507年(永正4)乗空が再興し,願泉寺と号した。境内に相阿弥築造と伝える庭園がある。
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