養源院(読み)ヨウゲンイン

デジタル大辞泉 「養源院」の意味・読み・例文・類語

ようげん‐いん〔ヤウゲンヰン〕【養源院】

京都市東山区にある浄土真宗遣迎院派の寺。もと天台宗。文禄3年(1594)淀君が父浅井長政法名、養源院)追福のため建立

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精選版 日本国語大辞典 「養源院」の意味・読み・例文・類語

ようげん‐いん ヤウゲンヰン【養源院】

京都市東山区にある浄土真宗遣迎院派の寺。もと天台宗。文祿三年(一五九四)開創。開山は成伯。父浅井長政(法名養源院)追善のため大虞院(豊臣秀吉室淀君)が建立。元和七年(一六二一)妹の崇源院徳川秀忠夫人)が再興伏見城から移した方丈天井は、慶長五年(一六〇〇)大坂方の軍に囲まれて自刃した鳥井元忠など徳川方の将士の血痕が残り、血天井と呼ばれる。

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日本歴史地名大系 「養源院」の解説

養源院
ようげんいん

[現在地名]東山区三十三間堂廻り町

三十三間堂(蓮華王院)の東向い、後白河天皇法住寺ほうじゆうじ陵の北に位置する。浄土真宗遣迎院派。元和年間(一六一五―二四)再興時の客殿(現本堂)書院護摩堂・表門が現存小堀遠州の作とされる池庭は明治期に損壊され、苑池や散在する庭石に往時をしのぶしかない。創建時は天台宗比叡山延暦寺の所轄であったが、第二次世界大戦後現宗派となった。本尊は寺伝に藤原時代の作とする一木造阿弥陀如来像。伏見ふしみ(現京都市伏見区)豊臣秀吉が祀っていたものを元和再興時に移したという大聖歓喜双身天王像がある。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔淀君の建立〕

当院は淀君が天正元年(一五七三)江北の小谷おだに(現滋賀県湖北町・浅井町)で自刃した父浅井長政・兄万福丸・祖父久政ら浅井一族の菩提を弔うため、長政二十一回忌にあたる文禄三年(一五九四)五月豊臣秀吉に頼んで建立、長政の法号養源院を寺号とした。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「養源院」の意味・わかりやすい解説

養源院
ようげんいん

京都市東山区三十三間堂廻(まわ)り町にある浄土真宗遣迎院(けんごういん)派(もと天台宗)の寺。俗に桃山御殿とよばれる。本尊は阿弥陀如来(あみだにょらい)。1594年(文禄3)豊臣(とよとみ)秀吉の側室淀殿(よどどの)が亡父浅井長政(ながまさ)の追福のため建立。長政の法名をとって養源院とした。開山は長政の弟清伯(成伯、盛伯とも書く)。その後、火災にあったので、徳川秀忠(ひでただ)の妻崇源院(すうげんいん)(淀殿の妹)が伏見(ふしみ)桃山城の書院を移し、これを再興した。本堂は同じく伏見桃山城の殿舎を移転したもので、1600年(慶長5)8月、石田三成(みつなり)に敗れた鳥居元忠(とりいもとただ)などが自刃した殿舎である。その血痕(けっこん)がついた廊板を天井に使用しているので血天井とよばれる。堂内松の間の襖絵(ふすまえ)12面(「松図」など)と獅子(しし)などを描いた杉戸四枚の絵は俵屋宗達の筆と伝えられ、国重要文化財に指定されている。

清水 乞]

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