館山城跡(読み)たてやまじようあと

日本歴史地名大系 「館山城跡」の解説

館山城跡
たてやまじようあと

[現在地名]館山市館山

館山町の南、館山平野の南西端に位置する独立丘陵、しろ山に位置する。築城の経緯については不詳だが、戦国時代末には岡本おかもと(現富浦町)を主城としていた里見氏の支城として機能していたと思われる。天正一八年(一五九〇)安房一国を与えられた里見義康当城を修築、本城となして入り、館山町などの城下町を整備している。しかし慶長一九年(一六一四)里見氏は伯耆倉吉くらよし(現鳥取県倉吉市)に転封となり、当城も廃城となった。その後、館山藩主となった稲葉正武によって寛政三年(一七九一)城山南腹に陣屋(館山藩陣屋)が設けられている。なお当城・館山藩陣屋ともに岡上須賀おかうえすか村地内であった。

年未詳二月四日の里見義頼判物(上野家文書)によると、岡本城にいた義頼は上野源八郎泰国に対して、明五日未明より「館山へ為番手御越」よう命じている。なお「藩翰譜」によると天正九年、北条氏政は海陸二手に分れて安房・上総に侵入し、「館山・久留里・佐貫の城」を攻めたという。里見氏は同一八年の小田原攻めへの遅参を理由に上総国を没収され、安房一国九万二千石を安堵され、慶長五年の関ヶ原の戦後、常陸鹿島郡三万石を与えられている。


館山城跡
たてやまじようあと

[現在地名]香住町無南垣 城山

佐津さづ川左岸、無南垣むながい集落西の標高約四〇―八〇メートルの丘陵に所在し、北側と西側は日本海に面していて急崖となっている。塩冶氏の居城で、無南垣城ともいう。城域は東西約四五〇メートル・南北約二五〇メートルもある大城郭で、四つの城砦群(城砦I・II・III・IV)で構成されている。城砦Iは丘陵西端の標高八一・四メートルに位置し、主郭(一〇×一三メートル)の周りに帯曲輪を巡らし、そこから三方向に延びる尾根に十数段の曲輪を配置する。


館山城跡
たてやまじようあと

[現在地名]米沢市舘山一―五丁目

米沢盆地の南西端、標高二七〇メートルの丘陵にある中世の城郭跡。南は標高五三四・一メートルの山、西は鬼面おもの川を限り、対岸は山地に続く。東方米沢城との境界には土塁が築かれていた。古くは奥州藤原氏の一族新田氏の居館であったと伝える。新田氏は元亀元年(一五七〇)元亀の変で伊達輝宗に滅ぼされ、当城は伊達氏に帰属した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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