中世後期に陸上運輸業者の馬借が集団で蜂起した事件。土一揆(つちいつき)の先頭を切った行動として注目されているが,元来山門の強(嗷)訴(ごうそ)の一環として登場した事件である。1379年(天授5・康暦1)6月,近江坂本の馬借1000余人が京の祇園社に討ち入ったというのが初見で(八坂神社〈社家記録〉),山徒(山門の下級僧侶)の一員でありながら幕府と結託して権勢を振るった円明坊と,関のことで争ったことが原因であった。1418年(応永25)には大津の馬借数千人が,やはり祇園社に立てこもって山徒円明坊を攻撃し,米の売買と関について訴えた(《看聞日記》)。26年には坂本の馬借が,北野の麴座の麴室(こうじむろ)独占による米価下落に端を発する強訴で,祇園社と北野社の占拠を企てて幕府軍と対峙した(《満済准后日記》)。このように,大津,坂本の馬借の蜂起は,経済的な権益をめぐる争いを,伝統的な山門の僧兵の強訴の形を踏襲して行ったものであったが,28年(正長1)のいわゆる正長(しようちよう)の土一揆以後,徳政を要求する土一揆に際して各地の馬借が活躍した。正長の土一揆で馬借の動きが史料上に確認されるのは,11月に奈良に向かった山城の馬借数千人であるが(春日神社〈社頭之諸日記〉),発端となった8月の近江の地下人(じげにん)の徳政蜂起の中に,大津,坂本の馬借も参加したと推定される。これ以後しばしば土一揆を記す史料の中に馬借が登場する。とくに奈良を攻めた土一揆は,木津などの馬借がその主体であるように記されている(《大乗院寺社雑事記》)。そのため土一揆は馬借が先頭に立ってリードしたという理解が一般的である。しかし史料に出てくる〈馬借〉の語は,〈土民〉さらには〈土民蜂起〉とほとんど同義に使われている場合が多い。土一揆における馬借の参加の事実の重さゆえにこのような用語法が生まれたことは否めないが,史料上の表現にそのまま依拠して馬借の活躍を過大評価することは慎まなければならない。
執筆者:村田 修三
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