高貴寺(読み)コウキジ

デジタル大辞泉 「高貴寺」の意味・読み・例文・類語

こうき‐じ〔カウキ‐〕【高貴寺】

大阪府南河内郡河南町にある高野山真言宗の寺。山号神下こうげ山・葛城かつらぎ山。7世紀末、えんの行者開創。初め香華寺と称し、9世紀に空海が寺名を改め中興したと伝える。戦乱により荒廃していたが、江戸時代慈雲復興

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精選版 日本国語大辞典 「高貴寺」の意味・読み・例文・類語

こうき‐じカウキ‥【高貴寺】

  1. 大阪府南河内郡河南町にある高野山真言宗の寺。山号は神下(こうげ)山または葛城山文武天皇の時代、役小角(えんのおづの)創建と伝えられる。はじめ香華(花)寺と名づけられたが、弘仁年間(八一〇‐八二四)空海が現名に改称。元弘元年(一三三一)焼失し、安永年間(一七七二‐八一)慈雲尊者飲光(おんこう)正法律本山として再興した。河内香花寺。

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日本歴史地名大系 「高貴寺」の解説

高貴寺
こうきじ

[現在地名]河南町平石

金剛山地の岩橋いわはし山西麓に位置し、東方は平石ひらいし峠で大和に通ずる。高野山真言宗、山号神下山、本尊五大明王。開山役行者文武天皇の勅願によるという。「河内高貴寺縁起」によれば、役行者が法華二十八品に擬して葛城山中に草創した二八ヵ所の修験霊場の一つで、二十五品の普門品に相当し、古く底筒男命が降臨した地なので神下山香花寺と称した。弘仁年間(八一〇―八二四)空海が来住して鎮護国家のため卒塔婆を刻書し堂塔を建立した際、高貴徳王菩薩の示現をみたため高貴寺と改称したという。その後空海の弟子智泉が継承、長治年間(一一〇四―〇六)には東寺長者鳥羽範俊が一時住持し、建久元年(一一九〇)後鳥羽天皇が熊野行幸の途次当寺に参詣し十三重石塔を建立したといわれる。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「高貴寺」の意味・わかりやすい解説

高貴寺
こうきじ

大阪府南河内(かわち)郡河南町平石にある高野山(こうやさん)真言宗の寺。山号は神下山(こうげさん)また葛城山(かつらぎさん)とも称する。文武(もんむ)天皇(在位697~707)のとき、役行者(えんのぎょうじゃ)が『法華経(ほけきょう)』28品(ほん)に配して葛城山に28か所の霊場を開いた。この寺もその一つで、供華(くげ)が多かったので香華(こうげ)寺と称した。のち弘法(こうぼう)大師(空海)がこの寺で高貴徳王菩薩(ぼさつ)を感得し、寺号を高貴寺とした。平安時代に嵯峨(さが)天皇の勅(みことのり)を奉じて堂塔伽藍(がらん)を創建したが、中世の兵火にあい焼失した。安永(あんえい)年間(1772~81)慈雲(じうん)尊者(飲光(おんこう))が来住し正法律(しょうぼうりつ)を復古、さらに神仏を習合し調和させた両部神道(しんとう)の奥秘(おうひ)を述べて葛城神道(雲伝(うんでん)神道)を唱えた。慈雲を中興第1世とする。金堂、講堂、開山堂などが建ち、寺宝に慈雲の膨大な著作真跡がある。

[野村全宏]

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