日本歴史地名大系 「鳥羽殿跡」の解説
鳥羽殿跡
とばどのあと
京都の南、鳥羽一帯に一一世紀末白河天皇が退位後の後院として造営した離宮。「城南の離宮」「鳥羽の離宮」といわれて、一四世紀頃まで使われた。現在の京都市南区
鳥羽の地は、古くから鳥羽の
さながら都遷りのごとくであったという。御所は高階泰仲が造進し、山荘地を献上した季綱ともどもその役を重任されている。また作庭、築山等諸造作も五畿七道六十余州の国々への課役でまかなわれた。以降の御所造営や御堂造営、それに伴う作庭等も同様に受領層の成功や諸国への課役で行われている。
寛治元年(一〇八七)二月五日離宮御所に最初の遷幸があった(中右記)。これは鳥羽南殿御所にあたる。翌寛治二年三月五日には、北殿御所ができて移徙(後二条師通記)。次いで馬場・馬場殿御所・泉殿御所が造営(「中右記」寛治四年四月一五日・同六年二月一七日条)。これらに配された侍の数を「為房卿記」は「鳥羽殿侍百人、北殿七十五人、南殿十七人、泉殿八人」(康和五年八月二二日条)と記す。
その後、泉殿は早く失われたらしく、この地一帯に東殿御所や御堂が造営される。天仁元年(一一〇八)白河上皇は、後に自身の墓所塔とすべく三重塔を建立せんとして「東殿」の地を視察している(「中右記」同年六月三日条)から、この時既に東殿があったと考えられる。三重塔は天仁二年建立され(「殿暦」同年八月一八日条)、後、この墓所塔の拝堂
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報