鳥羽殿跡(読み)とばどのあと

日本歴史地名大系 「鳥羽殿跡」の解説

鳥羽殿跡
とばどのあと

京都の南、鳥羽一帯に一一世紀末白河天皇が退位後の後院として造営した離宮。「城南の離宮」「鳥羽の離宮」といわれて、一四世紀頃まで使われた。現在の京都市南区上鳥羽かみとば、伏見区竹田たけだ中島なかじま・下鳥羽一帯にあたり、旧鴨川を東限とし、現鴨川(かつては鳥羽作道)を西限とし、北は字青池あおいけ(現竹田青池町)、字段河原だんのがわら(現竹田段ノ川原町)、字田中殿たなかでん(現竹田田中殿町)、南は湖沼のため判然としないが、中島の南方字かみ(現中島樋ノ上町)、字松林まつはやし(現竹田松林町)の辺りまでと推定されている。全域およそ一八〇町に及ぶ広大なものであったが、その半ば以上は、天然またはこれを改修した池泉であった。

鳥羽の地は、古くから鳥羽の作道つくりみちがあり、そのまま北上すれば朱雀大路に至り、また鴨川と桂川の合流点に近く水運を利用するにも便利であった。その上一帯は、水郷の地として、平安時代初めから宮廷人の狩猟や遊楽の適地であり、九世紀末から一〇世紀初頭藤原時平は、別業「城南水閣」を営み、一一世紀には、藤原季綱が山荘を営んだ。季綱はその地を白河天皇に献上、白河天皇によって大規模な鳥羽離宮の造営がなされることになった。「扶桑略記」応徳三年(一〇八六)一〇月条に次のようにある。

<資料は省略されています>

さながら都遷りのごとくであったという。御所は高階泰仲が造進し、山荘地を献上した季綱ともどもその役を重任されている。また作庭、築山等諸造作も五畿七道六十余州の国々への課役でまかなわれた。以降の御所造営や御堂造営、それに伴う作庭等も同様に受領層の成功や諸国への課役で行われている。

寛治元年(一〇八七)二月五日離宮御所に最初の遷幸があった(中右記)。これは鳥羽南殿御所にあたる。翌寛治二年三月五日には、北殿御所ができて移徙(後二条師通記)。次いで馬場・馬場殿御所・泉殿御所が造営(「中右記」寛治四年四月一五日・同六年二月一七日条)。これらに配された侍の数を「為房卿記」は「鳥羽殿侍百人、北殿七十五人、南殿十七人、泉殿八人」(康和五年八月二二日条)と記す。

その後、泉殿は早く失われたらしく、この地一帯に東殿御所や御堂が造営される。天仁元年(一一〇八)白河上皇は、後に自身の墓所塔とすべく三重塔を建立せんとして「東殿」の地を視察している(「中右記」同年六月三日条)から、この時既に東殿があったと考えられる。三重塔は天仁二年建立され(「殿暦」同年八月一八日条)、後、この墓所塔の拝堂成菩提じようぼだい院が建立されている(「長秋記」天承元年七月八日条)(→成菩提院

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「鳥羽殿跡」の解説

とばどのあと【鳥羽殿跡】


京都府京都市伏見区中島前山町にあり、通称、鳥羽離宮跡と呼ばれる宮殿跡。鳥羽離宮は平安時代後期に上皇の後院として建設された。全体の規模は、東西1500m、南北1000mにも及ぶ広大なもので、白河、鳥羽、後白河3代にわたる院政の中心舞台となった。1086年(応徳3)、白河上皇によって最初に南殿が造営され、鳥羽上皇の時までに北殿、泉殿、東殿、田中殿の舎屋と付属の堂塔がつくられた。南殿には御所があり、仏殿と池庭が一体となった優雅な離宮だったが、南北朝内乱の兵火でほとんど焼失したと推定される。院政期の政治・文化史を知るうえで鳥羽殿が占める位置が高いことなどから、1978年(昭和53)、最初に造営された南殿跡を対象として、国の史跡に指定された。現在、南殿部分は築山とされる「秋の山」を含む北半分が鳥羽離宮公園として整備されている。JR東海道新幹線ほか京都駅から市バス「城南宮道」下車、徒歩約5分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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