邦楽の曲名。鳥辺山(鳥辺野)で心中する男女,源五兵衛・おまんを扱った俗謡が近世初期に流行したが,この2人を主人公とする浄瑠璃や歌舞伎狂言(おまん源五兵衛物),あるいはこの状況を用いた歌舞伎や邦楽が作られている。
(1)地歌 近松門左衛門作詞,湖出金四郎作曲,岡崎検校(1684-1753)改調。1706年(宝永3)正月京都の都万太夫座および同年夏大坂の岩井座で上演された歌舞伎狂言《鳥辺山心中》の道行に用いられた曲を岡崎検校が地歌に移したとされる。お染半九郎の道行で名曲。(2)に大きな影響を与えた。この一節を義太夫節《堀川》(《近頃河原達引(ちかごろかわらのたてひき)》)で老婆が小娘に三味線を教える場に使用している。
(2)宮薗節 明和(1764-72)初年ころ,宮薗鸞鳳軒(らんぽうけん)作曲。義太夫節《太平記忠臣講釈》(1766)の第五で石堂縫殿之助が傾城浮橋と演じる余興の道行《道行人目のしげぬい》により作曲した。全体に名文であり,とくに2人の衣装を述べるくだりと終りを二上りにした曲節は,邦楽の中でも出色の出来といえるものである。
執筆者:竹内 道敬
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地歌(じうた)および宮薗節(みやぞのぶし)の曲名。『鳥辺山心中』の原典は1706年(宝永3)正月、京都都万太夫(みやこまんだゆう)座上演のもので、このときはおまん源五兵衛の役名であったが、同年夏、大坂・岩井座でお染半九郎の役名で上演され、その道行の詞章が地歌の『鳥辺山』となった。これは近松門左衛門の加筆といわれる。一方、宮薗節のほうは初世宮薗鸞鳳軒(らんぽうけん)作曲。男女の名が浮橋縫之助(うきはしぬいのすけ)になっているのは、1766年(明和3)近松半二ほか合作の義太夫節『太平記忠臣講釈』の第五「道行人目(みちゆきひとめ)の重縫(しげぬい)」が典拠になっているためで、塩冶(えんや)判官の弟縫之助が傾城(けいせい)浮橋を溺愛(できあい)しているのを、取り巻き連中が茶屋で両人をおだてて「鳥辺山心中」に見立てた道行の場をやらせる趣向を踏襲しているためである。詞章は地歌のものを転用し、部分的に手を加えているが、宮薗を代表する名曲になっている。
[林喜代弘]
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…また疫病の流行や飢饉に際して,河原や荒野に遺棄された死体を念仏僧などが火葬にする風があった。この時期,京都では鳥辺山,船岡山などが民間の火葬地として知られていた。また平安時代中期以降,遺骨を寺域に移す風がおこり,三昧堂,廟堂などが建てられ,さらに火葬骨を納めた五輪塔など石造墓塔が立てられ,後世の寺墓のおこりもみられるようになった。…
…京都市東山区の清水寺南側にひろがる野。鳥戸(部)野とも書く。化野(あだしの)の露,鳥部山の烟といわれるように,早く平安時代初期から京都近郊に存在した葬送地の一つとして有名であった。はじめは鳥部(辺)山の麓を鳥辺野と称したが,この山は阿弥陀ヶ峰をいうらしく,かつての鳥辺野は現在の地から阿弥陀ヶ峰にかけての広い地域を称した。ここでの葬送の例は多くあり,藤原道長もここで荼毘(だび)に付されている。鳥部寺(愛宕寺)が営まれ,また少し西に珍皇(ちんこう)寺,六波羅蜜寺などが建立されるのは,鳥辺野が葬送地であったからである。…
※「鳥辺山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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