日本大百科全書(ニッポニカ) 「鹿島臨海工業地域」の意味・わかりやすい解説
鹿島臨海工業地域
かしまりんかいこうぎょうちいき
茨城県南東部、鹿嶋市(かしまし)と、神栖市(かみすし)の2市にまたがる工業地域。鹿島砂丘を掘り込んで築港した鹿島港と、砂丘地を開発した工業地域である。20万トン級タンカーが入港できる港と広大な用地や豊富な工業用水に恵まれ、海洋性の温暖な気候をもつ地域で、かつ京浜工業地帯に近接するなど有利な立地条件をもつ。茨城県の後進性を脱却するため1960年(昭和35)に構想を発表、翌1961年「鹿島臨海工業地帯造成計画」として実施に着手した。1963年に工業整備特別地域に閣議決定、早くも鹿島港の起工式が行われた。計画は現在の2市合計面積の約40%にあたる1万ヘクタールを対象に、工業用地、港湾、住居地域などを1963年から1980年までに造成し、鉄鋼、石油、電力などの企業を誘致し、これにより人口30万、工業出荷額は水産加工を主とした46億円から1兆1000億円(火力発電を含む)にしようとしたものである。鹿島港をもつ神栖、鹿島両地区の開発を先行し、1969年には住友金属工業(現、日本製鉄)の圧延工場が操業を開始した。1970年にはJR鹿島線、鹿島臨海鉄道が営業開始、石油精製、石油化学、製鉄、火力発電も操業を始め、25万トンタンカーも入港するなど順調に進展した。1976年には製造品出荷額は鹿島町(現、鹿嶋市)、神栖町(現、神栖市)あわせて1兆30億円をあげ、ほぼ計画を達成した。波崎地区は1973年石油危機以後の不況を受けて開発が遅れたが、1980年企業の立地決定をみた。大規模素材生産型の工業が主で、二次、三次加工企業がなく、地元労力の吸収、生活圏の形成、公害など問題は残っている。しかし、1994年(平成6)、製造品出荷額は鹿嶋、神栖、波崎の1市2町(当時)で1兆6700億円に達し、茨城県の産業構造を変えた効果は大きいといえよう。
[櫻井明俊]