デジタル大辞泉
「黒沢琴古」の意味・読み・例文・類語
くろさわ‐きんこ〔くろさは‐〕【黒沢琴古】
[1710~1771]尺八琴古流の流祖。初世。筑前の人。各地の尺八曲を収集・整理して琴古流の基礎を築いた。
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黒沢琴古 (くろさわきんこ)
尺八楽琴古流の流祖および宗家代々(4世まで存続)の芸名。(1)初世(1710-71・宝永7-明和8) 本名幸八。筑前黒田藩士の家の出身。浪人して普化(ふけ)宗の虚無僧となり,のち江戸に出て普化宗の吹合(ふきあわせ)(尺八指導役)を務め,諸国の虚無僧寺所伝の尺八曲を収集,整理,編曲して約30曲を制定。これが琴古流本曲の基となる。(2)2世(1747-1811・延享4-文化8) 初世の子。本名幸右衛門。父を継いで吹合となる。18世紀末には一般人の入門も増え,2世琴古は江戸市中に3ヵ所の教授所を持った。初世の高弟宮地一閑(みやじいつかん)が一閑流を称したため,彼の代から琴古流と称する。(3)3世(1772-1816・安永1-文化13) 2世の子。本名雅十郎。前芸名琴甫(きんぽ)。早くから父と並んで市中に教授所を持つ。琴古流本曲は彼の代に固まる。彼の備忘録(仮称《琴古手帖》)は貴重な資料である。(4)4世(?-1860(万延1)) 3世の弟。本名音次郎。技量未熟のため3世の高弟久松風陽の後見で襲名したが,まもなく尺八を捨てた。以来,宗家としての琴古の名跡は絶えている。
執筆者:上参郷 祐康
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黒沢琴古
くろさわきんこ
琴古流尺八家宗家代々の芸名。初世(1710―71)はもと筑前(ちくぜん)(福岡県)黒田藩士で、本名幸八。普化宗(ふけしゅう)に入宗し、虚無僧(こむそう)となって諸国を行脚(あんぎゃ)。19歳のとき長崎正寿軒(しょうじゅけん)で一計子から『古伝(こでん)三曲』の伝授を受けたほか、各地に伝わる尺八曲を収集し、後の琴古流本曲(ほんきょく)36曲の基礎をつくった。18世紀の京や江戸では、普化宗公認の形で一般人への尺八教授が行われたが、一月寺(いちがつじ)、鈴法寺(れいほうじ)両寺の江戸の吹合(ふきあわせ)所(尺八指南所)の吹合(尺八指南役)および製管師として活躍した。2世(1747―1811)、3世(1772―1816)ともそれぞれ実子が継ぐ。3世の記した『琴古手帳』は宗家伝来の唯一の文献である。4世(?―1860)で尺八家としての名跡は絶えた。
[月溪恒子]
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黒沢琴古(初代)
没年:明和8.4.23(1771.6.5)
生年:宝永7(1710)
江戸中期の尺八琴古流の流祖。本名幸八。黒田美濃守の家臣であったという。詳しい経歴は不明。若くして普化宗に入り,江戸にあっては尺八の名手として,普化宗両本寺(一月寺,鈴法寺)の 吹合(尺八指南役)を務めた。自身による曲の案出のほか,それまで虚無僧などによって伝えられていた多くの尺八曲を収集整理し,30曲余りを流曲として制定,琴古流の基礎を築いた。尺八の製管もよくし,現在残るその作品数管は音楽学の史料としても貴重。弟子には,一閑流を唱えた宮地一閑などがいる。<参考文献>栗原広太『尺八史考』(復刻,1975)
黒沢琴古(3代)
没年:文化13.6.22(1816.7.16)
生年:安永1(1772)
江戸中・後期の琴古流尺八奏者。本名雅十郎(過去帳には雅二郎とある),のちに幸八と改める。2代目琴古の子。初め琴甫と号して「本町一丁目家主伝右衛門店」に住み,尺八教授を行った。江戸における尺八の名手として門人も多く,久松風陽などもそのひとり。尺八製管を手がけたほか,新曲の創作も多かったといわれる。3代目琴古が記録したと伝えられる『琴古手帖』(成立年不詳)は,琴古流の伝承を知るうえで重要な文献として名高い。4代目琴古(本名音次郎,のち幸八)は弟に当たる。<参考文献>栗原広太『尺八史考』(復刻,1975)
黒沢琴古(2代)
没年:文化8.6.12(1811.7.31)
生年:延享4(1747)
江戸中・後期の琴古流尺八奏者。本名幸右衛門,のち幸八と改名。初代琴古の子。尺八に堪能で父のあとを継ぎ,2代目となる。父と同じく普化宗両本寺(一月寺,鈴法寺)の 吹合(尺八指南役)を務め,また京橋柳町など江戸市中にも教授所3カ所を設けて,尺八の一般への普及にも一役を買った。2代目琴古の活躍で,初代が築いた流の基礎はより確実なものとなり,「琴古流」の名称もこのころから用いられ始めたものと思われる。<参考文献>栗原広太『尺八史考』(復刻,1975)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
黒沢琴古(1世)
くろさわきんこ[いっせい]
[生]宝永7(1710).福岡
[没]明和8(1771).4.23. 江戸
尺八楽の琴古流の宗家。本名幸八。もと筑前黒田藩士。浪人として普化宗に入宗,虚無僧になり,名手といわれる。諸国を行脚して諸地方の虚無僧尺八曲を収集。のち江戸で普化宗本山の吹合 (ふきあわせ。尺八指南役) となり,収集した尺八曲を整理,編作曲して,30余曲の本曲を制定,のちの琴古流尺八本曲 36曲の基礎をつくった。尺八製管にもすぐれ,制作品が伝わっている。琴古流流祖とみなされるが,琴古流の名称は2世の頃から用いられ始めた。
黒沢琴古(2世)
くろさわきんこ[にせい]
[生]延享4(1747)
[没]文化8(1811)
尺八楽の琴古流の宗家。1世黒沢琴古の実子。本名幸右衛門,のち幸八。本山の吹合 (ふきあわせ。尺八指南役) をつとめ,また初めて一般人対象の尺八教授所を江戸市中に開いた。
黒沢琴古(3世)
くろさわきんこ[さんせい]
[生]安永1(1772)
[没]文化13(1816)
尺八楽の琴古流の宗家。2世黒沢琴古の子。本名雅十郎,のち幸八。この人の頃までに琴古流本曲 36曲が確立された。
黒沢琴古(4世)
くろさわきんこ[よんせい]
[生]?
[没]万延1(1860)
尺八楽の琴古流の宗家。2世黒沢琴古の子,3世の弟。技量,人物ともに宗家の器ではなく,出奔し,琴古の名跡はここまでで断絶。
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黒沢琴古(初代) くろさわ-きんこ
1710-1771 江戸時代中期の尺八奏者。
宝永7年生まれ。琴古流の創始者。もと筑前(ちくぜん)福岡藩士。浪人し,虚無僧(こむそう)となって各地を遊歴。普化(ふけ)宗の両本寺,下総(しもうさ)小金(千葉県)の一月(いちげつ)寺,武蔵(むさし)青梅(おうめ)(東京都)の鈴法寺の吹合(ふきあわせ)となり,尺八の指導にあたる。諸国の尺八曲を収集整理し,楽器の改良にもつくした。明和8年4月23日死去。62歳。名は幸八。
黒沢琴古(3代) くろさわ-きんこ
1772-1816 江戸時代後期の尺八奏者。
安永元年生まれ。2代黒沢琴古の子。父の在世中は琴甫(きんぽ)と号した。琴古流3代をつぎ,江戸日本橋に吹合(ふきあわせ)所をもうけ,尺八を指南。門下に久松風陽がいる。琴古流伝承のための貴重な文献「琴古手帖」をのこした。文化13年6月22日死去。45歳。江戸出身。名は雅十(二)郎,のち幸八。
黒沢琴古(2代) くろさわ-きんこ
1747-1811 江戸時代中期-後期の尺八奏者。
延享4年生まれ。初代黒沢琴古の子。父の跡をつぎ,琴古流2代となる。普化(ふけ)宗両本寺の一月(いちげつ)寺,鈴法寺の吹合(ふきあわせ)として尺八の指導にあたる。また江戸市中に教授所を3ヵ所ひらいた。文化8年6月12日死去。65歳。名は幸右衛門,のち幸八。
黒沢琴古(4代) くろさわ-きんこ
?-1860 江戸時代後期の尺八奏者。
3代黒沢琴古の弟。兄が実子のないまま没したため,琴古流4代をつぐ。技量不足のため,久松風陽が後見役をつとめたが,4代没後琴古の名跡はたえた。安政7年1月15日死去。江戸出身。名は音次郎,のち幸八。
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黒沢琴古【くろさわきんこ】
琴古流尺八宗家の芸名。江戸中期から幕末までの間に4世あった。
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世界大百科事典(旧版)内の黒沢琴古の言及
【尺八】より
…しかし18世紀中ごろになると,虚無僧たちの尺八吹奏も音楽的な向上をみせはじめ,表向き禁止といいつつも一般人の尺八吹奏や箏・三味線との合奏もかなり広まった。そのころ江戸の虚無僧の中の尺八指南役だった初世[黒沢琴古](きんこ)は,各地の虚無僧寺所伝の尺八曲を収集整理し,編曲して30曲余りの本曲を制定した。これを基に江戸を中心に琴古流と称する芸系(今日まで存続)が生じ,以後,関西その他の地方にもいくつかの流派が生じた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」