龍沢寺
りゆうたくじ
[現在地名]金津町御簾尾
御簾尾の南東部にある。曹洞宗。平田山と号し、本尊は釈迦如来。応永(一三九四―一四二八)初年、当地の土豪の小布施四郎左衛門が梅山聞本を開山として創立、足利将軍家の祈願所ともなった。応永二一年の足利義満七回忌には将軍足利義持より梅山に拈香が所望されている。同二四年梅山の死後、一時無住となったが、永享二年(一四三〇)妙勇が入寺して再興、以後朝倉氏の保護を受けて栄え、遠く越後方面まで末寺が展開していた。しかし当地は加越交通の要地でもあるため、戦乱の際はしばしば陣所に利用された。
龍沢寺
りゆうたくじ
[現在地名]美浜町金山
久々子湖の東岸に位置し、俗に野寺という。湖岳山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。もと三方湖畔湖岳島(現福井県三方町)にあり、宝応寺と称し、永享年中(一四二九―四一)の草創と伝える。開山は藤井(現同町)の向陽寺五世の継陰宗隣という(若州管内社寺由緒記)。その後廃絶したが、豊臣秀吉の侍女が施主となって現在地に再興、龍沢寺と改め、「三方郡誌」によれば天正二〇年(一五九二)秀吉は当寺に禁制を与えたという。なお侍女の戒名は放光院心室理性尼大姉だが、早瀬浦(現美浜町)の生れといわれ、また浅井長政の女とも、秀吉の側室芳寿院の乳母ともいわれている。
龍沢寺
りゆうたくじ
[現在地名]厚田郡厚田村大字古潭村
日本海に面する旧アツタ場所コタンベツ番屋下に位置する曹洞宗寺院。三面山と号し、本尊は釈迦如来。寺伝では場所支配人の尽力により一八六一年(文久元年)に箱館奉行所の許可を受けての創建とされるが(寺院沿革誌)、幕府寺社奉行所ならびに教団による寺号公許は一八六五年(慶応元年)である(「同役衆進達留」国会図書館蔵)。初代住職には江戸生れの高龍寺(現函館市)安居萩原泰能が就いた。萩原は僧職のかたわら厚田街道の開削に従事するなど公共のために尽したが、明治二〇年(一八八七)六月に住職を辞して神職に転じ、のち弁天町の八幡神社社掌を勤めたという(厚田村史)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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