アルフォンソ(6世)(読み)あるふぉんそ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「アルフォンソ(6世)」の意味・わかりやすい解説

アルフォンソ(6世)
あるふぉんそ
Alfonso Ⅵ
(1040―1109)

レオン・カスティーリャ王(在位1065~1109)。父フェルナンド1世からレオン王国を継承(1065)したが、兄サンチョ2世の死後はカスティーリャ王も兼ねた(1072)。十字軍運動に象徴される興隆期の西ヨーロッパとの交流を重視、このためにクリュニーの修道士たちを歓迎し、また道路や宿泊所を整備してヨーロッパ各地から訪れるサンティアゴ・デ・コンポステラへの巡礼の便宜を図った。他方、レコンキスタ国土回復戦争)では武力よりも錯乱外交と経済的締め付けによってアル・アンダルス諸国の疲弊を策し、1085年にはついにかつての西ゴート王国の首都トレドをイスラムから奪回した。だが、この事態に危機感を抱いたイスラム側が北アフリカからの来援を頼んで大反攻に転じたために、南北の武力衝突は以後2世紀半にわたってもっとも激烈な様相を呈する結果となった。アルフォンソ6世の名を有名にしたもう一つは、兄サンチョの筆頭家臣エル・シッド(シード)との不幸な確執である。従来、武勲詩『わがシッドの歌』の主人公となった後者の徳を賞賛するあまり、アルフォンソは狭量な主君とみられがちであったが、王としての力量は十分に備えていた。

[小林一宏]


アルフォンソ(13世)
あるふぉんそ
Alfonso ⅩⅢ
(1886―1941)

スペイン王(在位1886~1931)。アルフォンソ12世の嗣子としてその死後生まれ、ただちに即位、母マリア・クリスティナMaría Cristina(1856―1929)が1902年まで摂政(せっしょう)となる。アルフォンソが親政を始めたのは、保守、自由両党の政権交代制に支えられた政治体制が、フィリピン、キューバでの独立運動の再燃復古王政の中心人物カノバス・デル・カスティーリョ暗殺、米西戦争における敗北などによって破綻(はたん)し始めた時期にあたる。また、腐敗した農村支配の是正を企図して行われた地方行政の改革が失敗したことや、二大政党が党内の対立によって分解したことは、政治体制の解体をさらに促進させることになった。

 第一次世界大戦では中立を保ち、鉱工業が飛躍的に発展したが、同時に物価も高騰し労働運動を激化させた。1917年の共和制を目ざすゼネストに続き、大戦後は経済不況、労働運動およびカタルーニャ・ナショナリズム運動の高揚にみまわれた。1921年の植民地モロッコでの軍の大敗北は国王に対する責任追及といった事態を招き、王政は危機に直面した。王政を救ったのは、1923年9月のプリモ・デ・リベラクーデターと独裁制樹立である。しかし、1930年1月に独裁制が倒れると、旧政治勢力や軍部の間でも国王は独裁の共犯者とみなされて支持を失った。1931年共和国成立以降は、亡命先から精力的に王党派に支持を与えた。1936年7月に内乱が起きるとフランコ側を支持したものの、フランコから王政復古の約束を得られず、両者の関係は悪化した。1941年1月15日四男のバルセロナ伯ファン(ドン・ファン)に王位継承権を譲渡、同年2月28日ローマで死去。

[中塚次郎 2015年10月20日]


アルフォンソ(12世)
あるふぉんそ
Alfonso Ⅻ
(1857―1885)

スペイン王(在位1874~1885)。1868年の九月革命で母イサベル2世とともにフランスに亡命。ブルボン王政復古を企てるカノバス・デル・カスティーリョの支持を受け、イサベルに王位を放棄させたうえで、「共和制がもたらした混乱収拾、すべての刷新、寛容・リベラリズム・カトリシズムに基づく体制の確立を目ざす」旨の声明をイギリスで発表した。1874年12月にマルティネス・カンポスArsenio Martínez Campos(1831―1900)の王政復古クーデターが成功し、王位についた。1876年憲法の制定、第三次カルリスタ戦争(1872~1876)の終結、キューバ独立運動鎮圧とともに、カノバス・デル・カスティーリョとサガスタによる安定した政治が行われ、国家財政も立て直された。経済も比較的順調に発展し、「協調と再建」の治世として人々に記憶されている。しかし、この体制から排除された大衆が、インターナショナルの伝統のもとで組織化され、南部農村や北東部都市で激しい運動を展開したことも見逃しえない。生来病弱であったが、1885年11月25日28歳の誕生日を前にして、結核により病死。

[中塚次郎]


アルフォンソ(10世)
あるふぉんそ
Alfonso X
(1221―1284)

レオン・カスティーリャ王(在位1252~1284)。文化面で後世に残る仕事をしたことから「賢王el Sabio」の異名をもつ。レコンキスタ(国土回復戦争)を大きく飛躍させたフェルナンド3世を継いだアルフォンソは、外に向けては内外の反対を押し切って神聖ローマ帝国の帝位をねらい、内政面ではローマ法の復活に鼓舞されて王権の強化と行政の中央集権化を政策目標とした。このために国内世論の支持は多分に遠のき、封建勢力は対決の姿勢を強めた。加えて、1264年に起きた大規模なイスラム教徒の反乱が、その鎮圧に手間どった王の威信低下に拍車をかけ、ついで1275年の皇太子の病死はその子供たちとサンチョ親王との間の王位継承争いに発展した。サンチョがカスティーリャ法に則して議会から王位継承者の承認を得ると、アルフォンソはローマ法の立場からこれを退けた。サンチョは世論の支持を背景に父王に対して反乱を起こし、王はセビーリャに包囲された形で死んだ。政治的才覚に乏しかった分だけアルフォンソは文才に恵まれ、学問への関心が強かった。自ら叙情詩『聖母讃歌(さんか)』をつくる一方、信教を問わず多くの学者文人を指揮して法典、歴史書、天文学書などの翻訳や執筆事業を促進した。

[小林一宏]


アルフォンソ(5世)
あるふぉんそ
Alfonso V
(1396―1458)

トラスタマラ朝アラゴン連合王国の二代目の王(在位1416~1458)。地中海における13世紀以来の政治的威信とカタルーニャ人による交易活動を守るために、終始、内政よりも対外政策に専念した。まずシチリアとサルデーニャ両島の支配を固め、ついでジェノバやフランスのアンジュー公家などと戦い、幾度か敗れたが、優れた外交手腕で苦境を切り抜けた。その後1442年6月にはついにナポリ王国を征服してその王位についた。この後さらに、おりから興隆期のオスマン・トルコに対抗してバルカン半島への進出を試みたが、成功しなかった。武人アルフォンソは、一方では文人でもあった。ナポリの宮廷にイタリア・ルネサンスを体現する多くの学者を迎え、「寛大王el Magnánimo」とよばれた。自らも神学や文献学に精通するなどルネサンス期支配者の典型例であった。

[小林一宏]


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百科事典マイペディア 「アルフォンソ(6世)」の意味・わかりやすい解説

アルフォンソ[10世]【アルフォンソ】

カスティリャ王国国王(在位1252年―1284年)。イスラム教徒と戦って国土を拡大し(国土回復戦争),1257年大空位時代のドイツ皇帝に選ばれたが,教皇の反対で断念。子や貴族にそむかれ,内乱を招いて廃位される。学芸の振興者として名高く,天文学者に〈アルフォンソ星表〉を作らせ,自らも《七部法典》などを著した。

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世界大百科事典(旧版)内のアルフォンソ(6世)の言及

【ブルゴーニュ朝】より

…王朝名はフランスのブルゴーニュ公家出身のライムンド(レモン)とエンリケ(アンリ)のいとこに由来する。11世紀末,2人はイベリア半島のレコンキスタ(国土回復戦争)に参加,カスティリャ王アルフォンソ6世の娘ウラカおよびテレサの2人とそれぞれ結婚した。この後まもなくカスティリャでは1108年にサンチョ皇太子が戦死,翌年にはアルフォンソ王も死んで王家の男系が絶え,ウラカが王位を継いだ。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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