生没年未詳。一般に歌舞伎(かぶき)の創始者とされている女性芸能者。伝説によると出雲国(島根県)松江の鍛冶(かじ)職中村三右衛門の娘で、出雲大社の巫女(みこ)だったという。江戸時代の初め京に上り、大社修繕のための勧進(かんじん)と称して芸能を演じた。初めは北野天満宮境内や五条河原に小屋がけして、「ややこ踊」や「念仏踊」といった単純な踊りだったが、1603年(慶長8)春のころ、男装して歌舞伎者に扮(ふん)し、茶屋の女のもとへ通うさまをみせる「茶屋あそびの踊」を創案し、異常なまでの人気を集めた。これが「歌舞伎踊」である。歌舞伎踊の創始については、夫となった狂言師三十郎(鼓打ちの三十郎とも、あるいは歌舞伎者の名古屋山三(なごやさんざ)とも伝える)の指導と協力があったというが確かではない。阿国の芸団は佐渡へ行ったともいい、江戸に下って千代田城内の能舞台で芸を演じたともされる。没年は、1613年(慶長18)に67歳で没したとも、故郷に帰って智月尼(ちげつに)と称し、87歳の高齢で没したともいい、また1607年(慶長12)小田原で没したとするなど、諸説があり、いずれも信じがたい。
1600年(慶長5)7月に、出雲国出身と名のる「クニ」が宮中に参入し、ややこ踊を演じたとの記録(時慶卿記(ときよしきょうき))がある。また、北野社関係の文書に、「くにと申(もうす)かぶき女」が登場する。これらが出雲の阿国に関して信頼できるごく限られた史料である。出身については多くの説があるが、いずれも決定的とはいえず、奈良近郊の散所(さんじょ)出身の「歩き巫女」とする想像が現在の通説となっている。阿国歌舞伎の成功をみるや、ただちに模倣する者が輩出し、彼女らも「国」を名のったことから複数の阿国が現れる。後世に、阿国の2代目、3代目がいたとする説が出たのは、俗資料の間の年代的な矛盾を解決しようとしたためであろう。
[服部幸雄]
『吉川清著『出雲の阿国』(1953・田中書房)』▽『服部幸雄著『歌舞伎成立の研究』(1968・風間書房)』▽『小笠原恭子著『出雲のおくに』(中公新書)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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