宗峰妙超(読み)シュウホウミョウチョウ

デジタル大辞泉 「宗峰妙超」の意味・読み・例文・類語

しゅうほう‐みょうちょう〔‐メウテウ〕【宗峰妙超】

[1283~1338]鎌倉後期の臨済宗の僧。播磨はりまの人。南浦紹明なんぽしょうみょうに学び、大徳寺創建花園上皇後醍醐天皇に信任された。著「語録」「仮名法語」「祥雲夜話」。興禅大灯国師高照正灯国師

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「宗峰妙超」の意味・わかりやすい解説

宗峰妙超
しゅうほうみょうちょう
(1282―1337)

鎌倉末・南北朝期の臨済(りんざい)宗の僧。播磨(はりま)(兵庫県)の人。11歳で出家、書写山の戒信(かいしん)に天台を学ぶ。その後、禅に転じ鎌倉・万寿(まんじゅ)寺の高峰顕日(こうほうけんにち)に参ずる。1305年(嘉元3)宋(そう)より帰国し機鋒峻烈(きほうしゅんれつ)な禅を鼓吹していた南浦紹明(なんぽじょうみょう)(大応国師)に師事して法を嗣(つ)ぐ。1308年(延慶1)南浦の遷化後は京都東山の雲居(うんご)寺に住した。1324年(正中1)赤松則村(あかまつのりむら)は京都・紫野に大徳寺を造営し宗峰を開山とした。花園(はなぞの)上皇は彼に禅要を問い、興禅大燈(だいとう)国師を賜号。正中(しょうちゅう)年間(1324~1326)の宗論に際しては、法兄(ほうひん)通翁鏡円(つうおうきょうえん)(1258―1325)の侍者として清涼殿に参内し、玄恵(げんえ)らの南都北嶺(ほくれい)の諸師を論破した。また後醍醐(ごだいご)天皇も尊信して、建武(けんむ)の新政の際に大徳寺は「本朝無比禅苑(ぜんえん)」の宸翰(しんかん)を賜り、南禅寺と並び五山第一に推された。1341年(興国2・暦応4)大徳寺は五山から除かれたが、峻烈な修行を特色とする宗峰の系統は、五山派に相対する立場を貫き、さらに法嗣(はっす)の関山慧玄(かんざんえげん)が妙心寺を開き、応(大応国師)・燈(大燈国師)・関(関山)の一流は現在の臨済宗諸派の法系上の源流となっている。延元2年・建武4年12月22日(1337年)56歳で示寂。関山、徹翁義亨(てっとうぎこう)、海岸了義(かいがんりょうぎ)(生没年不詳)、虎渓道壬(こけいどうじん)(?―1377)らの弟子がいる。1686年(貞享3)大慈雲匡真(だいじうんきょうしん)国師と加諡(かし)された。『語録』『法語』『碧巌集下語(へきがんしゅうあぎょ)』『大燈百二十則』などの著書がある。

[石川力山 2017年7月19日]

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改訂新版 世界大百科事典 「宗峰妙超」の意味・わかりやすい解説

宗峰妙超 (しゅうほうみょうちょう)
生没年:1282-1337(弘安5-延元2・建武4)

臨済宗の僧。大灯国師。播磨の紀氏の出身。11歳のとき書写山円教寺に入って天台宗を学んだが,のちに鎌倉万寿寺の高峰顕日に参じて禅を修めた。しかし,和様化したその禅風に飽き足りず,1305年(嘉元3)新帰朝僧の南浦紹明(なんぽしようみよう)について大陸禅を学び,ついにその法をついだ。正中の宗論に際して,通翁鏡円の侍者として参内し,玄慧(げんえ)法印ら南都北嶺の学匠たちを論破したことは有名である。のち東山の雲居(うんご)菴に隠棲すること20年,やがて24年(正中1)京都の紫野に大徳寺を開創した。花園上皇や後醍醐天皇のあつい帰依を受け,それぞれ興禅大灯,高照正灯の国師号を贈られた。37年12月22日没。門下からは大徳寺をついだ徹翁(てつとう)義亨,妙心寺を開いた関山慧玄(えげん)を出している。その墨跡類は禅の書のなかでもとくに雄渾な逸品といわれ,その峻厳な禅風をよく伝えていて珍重されている。著作に《大灯国師語録》3巻などがある。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「宗峰妙超」の意味・わかりやすい解説

宗峰妙超
しゅうほうみょうちょう

[生]弘安5(1282).播磨
[没]延元2=建武4(1337).12.22. 京都
鎌倉から南北朝時代の臨済宗僧。大徳寺の開山。 11歳で書写山に入って戒信律師に天台学を学んだが,のち禅に志し,高峰顕日に師事したが,和様化した禅にあきたらず,宋から帰朝した南浦紹明の門に投じてその法を継いだ。延慶1 (1308) 年南浦の死後,東山の雲居庵に隠棲し,十数年にわたり修行生活をおくったが,やがて赤松則村や花園天皇の帰依を受け,元応1 (19) 年,洛北紫野に大徳寺を開いた。花園天皇は宗峰を召してしばしば問法しており,のち宗峰に興禅大灯の国師号を贈った。宗峰はまた,後醍醐天皇の帰依を受け,高照正灯国師号を賜わった。著書『夜話記』『語録』。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「宗峰妙超」の解説

宗峰妙超 しゅうほう-みょうちょう

1283*-1338* 鎌倉-南北朝時代の僧。
弘安(こうあん)5年12月生まれ。臨済(りんざい)宗。天台をまなび,のち高峰顕日(こうほう-けんにち),南浦紹明(なんぽ-じょうみん)に師事し,紹明の法をつぐ。赤松則村,花園上皇,後醍醐(ごだいご)天皇の帰依(きえ)をうけ,嘉暦(かりゃく)元年(1326)京都大徳寺をひらいた。建武(けんむ)4=延元2年12月22日死去。56歳。播磨(はりま)(兵庫県)出身。俗姓は浦上。諡号(しごう)は興禅大灯国師,高照正灯国師など。著作に「大灯国師語録」など。

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百科事典マイペディア 「宗峰妙超」の意味・わかりやすい解説

宗峰妙超【しゅうほうみょうちょう】

鎌倉末期の禅僧。大灯国師。播磨(はりま)の人。南浦紹明に参禅し,大悟した。1326年京都紫野に大徳寺を開山,臨済宗大徳寺派の始祖となる。花園天皇の帰依(きえ)を受け,興禅大灯国師の号を贈られた。著《大灯国師語録》など。また名筆として知られ,尊円親王の和様に対し,唐様(からよう)の代表者。
→関連項目花園天皇

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旺文社日本史事典 三訂版 「宗峰妙超」の解説

宗峰妙超
しゅうほうみょうちょう

1282〜1337
鎌倉末期・南北朝初期の臨済宗の僧
宗峰は道号。播磨の人。花園・後醍醐 (ごだいご) 両天皇をはじめ上下の帰依をうけ,興禅大灯国師・高照正灯国師の国師号をうけた。京都大徳寺の開祖。また宋元風の書にもすぐれていた。

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世界大百科事典(旧版)内の宗峰妙超の言及

【大徳寺】より

…山号は竜宝山。開山は大灯国師宗峰妙超(しゆうほうみようちよう)である。1315年(正和4),妙超が赤松則村の帰依を受けて,雲林(うりん)院の旧地に小堂を建てたのが当寺の草創であるという。…

※「宗峰妙超」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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