島地黙雷(読み)シマジモクライ

デジタル大辞泉 「島地黙雷」の意味・読み・例文・類語

しまじ‐もくらい〔しまヂ‐〕【島地黙雷】

[1838~1911]浄土真宗本願寺派の僧。周防すおうの人。神仏分離大教院廃止を主張、各宗独立に努力。また、日本赤十字社の創立などに活躍。著「仏教各宗綱要」「維摩経講義」など。

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精選版 日本国語大辞典 「島地黙雷」の意味・読み・例文・類語

しまじ‐もくらい【島地黙雷】

  1. 真宗本願寺派の近代宗教家山口県出身。明治維新に際して教部省開設を建議し、欧米視察後には神仏分離を唱え、大教院の廃止を訴えた。大内青巒(せいらん)とともに「報四叢談」を刊行。日本赤十字社の創設にも参与。天保九~明治四四年(一八三八‐一九一一

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「島地黙雷」の意味・わかりやすい解説

島地黙雷
しまじもくらい
(1838―1911)

幕末、明治期の浄土真宗本願寺派の僧。幼名謙致(けんち)。益渓(えきけい)、縮堂(しゅくどう)、雨田(うでん)、北峯(ほくほう)、六六道人(ろくろくどうじん)と号した。周防(すおう)国佐波(さば)郡和田村(山口県周南(しゅうなん)市)専照寺、清水円随(しみずえんずい)(本願寺派勧学)の四男に生まれ、のち同派の島地村(現、山口市徳地(とくぢ)島地)妙誓寺に入寺して島地姓となる。幼くして萩城学校に学び、肥後(熊本県)光照寺の原口針水(はらぐちしんすい)(1808―1893)に師事して真宗学、仏教学を学んだ。1866年(慶応2)春、大洲鉄然(おおずてつねん)と謀り、萩(はぎ)に学校を設けて長門(ながと)・周防の真宗寺院の徒弟を教育する。1868年(明治1)上洛(じょうらく)して本派本願寺改革を建議し、1871年東京・神田今川小路に日新堂を開き『新聞雑誌』を刊行。1872年1月梅上沢融(うめがみたくゆう)(1835―1907)に従って渡欧し、海外の宗教事情を視察し、7月に帰国。1873年神仏合同大教院分離運動に着手し、大教院を崩壊に導く。本派本願寺の執行長(しぎょうちょう)を務める一方、1888年女子文芸学舎(千代田女学園の前身)を開設。また、日本赤十字社の設立に参与した。著書に『三国仏教略史』全3巻、『仏教各宗綱要』がある。

[池田英俊 2017年7月19日]

『千代田女学園編・刊『島地黙雷上人』(1960)』『『島地黙雷全集』全5巻(1973~1978・本願寺出版協会)』『川村覚昭著『島地黙雷の教育思想研究――明治維新と異文化理解』(2004・法蔵館)』

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改訂新版 世界大百科事典 「島地黙雷」の意味・わかりやすい解説

島地黙雷 (しまじもくらい)
生没年:1838-1911(天保9-明治44)

真宗西本願寺派の政僧。周防国(山口県)和田村専照寺に生まれ,28歳で島地村妙誓寺に入寺した。1866年(慶応2)大洲鉄然(おおずてつねん)とともに萩に改正局を設け防長2州の真宗子弟の教育に当たり,68年(明治1)赤松連城らと西本願寺改革を建議,奏功した。72年本願寺連枝梅上沢融らとヨーロッパを視察し翌73年帰朝したが,留守中に政府が国民指導原則として推進していた〈三条教則〉の批判を建白し,神道的な教導職養成機関大教院からの仏教各宗離脱運動を進めた。93年本山執行長となった。一方71年《新聞雑誌》を,74年大内青巒と《報四叢談(ほうしそうだん)》を発行して僧侶の教導に努めるとともに,東京に白蓮社(1875),女子文芸学舎(1888,千代田女学園の前身)などを設立し教育事業にも力を尽くした。1905年盛岡市願教寺へ入寺した。著書に《島地黙雷全集》5巻がある。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「島地黙雷」の意味・わかりやすい解説

島地黙雷
しまじもくらい

[生]天保9(1838).周防
[没]1911.2.3. 東京
江戸時代末期から明治を通じての仏教界の重鎮。浄土真宗本願寺派の僧。初め謙致,益渓,縮堂,北峰,六々道人と号した。幼時より仏教と儒学を学び,元治1 (1864) 年,萩藩の火葬禁止に反対した。幕末,維新期の廃仏毀釈の動きに対しては赤松連城らとこれに対抗。大教院制度に対しては,明治5 (72) 年『三条教則批判建白書』 (大教院分離建白書) を政府に提出して,その神道国教化政策を批判し,信教の自由と政教分離を説いた。一方,真宗教団の改革,組織化に力を尽し,女子教育にも意を用いた。著書『維摩経講義』『念仏往生義』など。

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百科事典マイペディア 「島地黙雷」の意味・わかりやすい解説

島地黙雷【しまじもくらい】

浄土真宗本願寺派の僧。周防(すおう)出身。明治維新に際し,教部省の設置,神仏分離に努力。1871年,欧米およびインドをめぐりパリから〈三条教則批判〉などの建白書で祭政一致の政策を批判するなど宗教界の刷新,大教院廃止に努力。《新聞雑誌》《報四叢談(ほうしそうだん)》の創刊に参加。白蓮(びゃくれん)社等を主宰した。主著は《三国仏教略史》など。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「島地黙雷」の解説

島地黙雷 しまじ-もくらい

1838-1911 幕末-明治時代の僧。
天保(てんぽう)9年2月15日生まれ。浄土真宗。周防(すおう)(山口県)島地村の本願寺派妙誓寺の住職となり,島地姓を名のる。大洲鉄然(おおず-てつねん)とともに宗門改革に参加。ヨーロッパ視察後,政府に信教の自由,政教分離を提言し,神道国教化をすすめる大教院を解散に追いこむ。明治27年勧学にすすみ,教育・社会事業にもつくした。明治44年2月3日死去。74歳。周防出身。姓ははじめ清水。名は謙致(けんち)。号は益渓,縮堂など。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「島地黙雷」の解説

島地黙雷
しまじもくらい

1838.2.15~1911.2.3

幕末~明治期の宗教家。幼名謙致。浄土真宗本願寺派の僧侶。周防国の僧侶の子。養家を出奔して肥後・安芸両国で学び,帰藩後は大洲鉄然(おおずてつねん)らの宗風改革運動に加わる。明治初期に上洛し,宗門改革に参加。廃仏毀釈に抵抗し,寺院寮や教部省の開設運動に奔走。渡欧後に信教の自由を訴え,真宗の大教院分離運動を推進,政府の国民教化政策を瓦解させた。のち各地への布教活動に邁進。

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旺文社日本史事典 三訂版 「島地黙雷」の解説

島地黙雷
しまじもくらい

1838〜1911
幕末・明治時代の浄土真宗の僧
周防(山口県)専照寺に生まれる。1872年より外遊して海外の宗教情勢を視察。神道の国教化に反対し,信教の自由獲得につとめた。本願寺の改革に参加し,西本願寺の幹部として宗門の発展に尽力した。

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367日誕生日大事典 「島地黙雷」の解説

島地 黙雷 (しまぢ もくらい)

生年月日:1838年2月15日
明治時代の僧侶
1911年没

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