川中島の戦い(読み)カワナカジマノタタカイ

デジタル大辞泉 「川中島の戦い」の意味・読み・例文・類語

かわなかじま‐の‐たたかい〔かはなかじま‐たたかひ〕【川中島の戦い】

戦国末期、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信とが信濃に進出して川中島で数度にわたって争った戦い。中でも永禄4年(1561)9月の遭遇戦が有名。浄瑠璃歌舞伎脚色されている。

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共同通信ニュース用語解説 「川中島の戦い」の解説

川中島の戦い

甲斐の武田信玄たけだ・しんげん、越後の上杉謙信うえすぎ・けんしんが北信濃領有を巡って10年以上繰り広げた戦いの総称。最も激しかったのは信州・川中島(長野市川中島町)一帯での4度目の合戦で、信玄の弟信繁のぶしげが討たれるなど、両軍とも多数の死者が出た。この際に信玄と謙信の一騎打ちがあったとも伝わるが、真偽は不明。現在も山梨、長野両県では毎年、川中島の戦いにちなんだ祭りが開催されている。

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精選版 日本国語大辞典 「川中島の戦い」の意味・読み・例文・類語

かわなかじま【川中島】 の 戦(たたか)

  1. 戦国時代末期、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が川中島を戦場として、数度にわたって争った戦い。近松門左衛門の「信州川中島合戦」や河竹黙阿彌の「川中島東都(あずま)錦絵」に脚色。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「川中島の戦い」の意味・わかりやすい解説

川中島の戦い
かわなかじまのたたかい

戦国時代に甲斐(かい)の武田信玄(たけだしんげん)と越後(えちご)の長尾景虎(ながおかげとら)(後の上杉謙信(うえすぎけんしん))とが、信州(しんしゅう)川中島(長野市川中島町)で北信濃(きたしなの)の領有をめぐり数度対戦した合戦の総称。合戦は1553年(天文22)から1564年(永禄7)の長期にわたって行われ、おもな対戦だけでも1553年、1555年(弘治1)、1557年、1561年(永禄4)、1564年の5回が数えられるが、もっとも激しい合戦であった1561年9月10日の戦いのみをいう場合もある。

 1541年(天文10)6月に家督相続した武田信玄は信濃へ出兵し、ほぼ10年くらいの間に信濃の旧族である小笠原(おがさわら)・村上(むらかみ)・高梨(たかなし)氏らを攻め滅ぼした。敗れた小笠原長清(ながきよ)、村上義清(よしきよ)らは越後の上杉謙信に救援を求め、1553年(天文22)謙信が初めて北信濃へ出兵して両者の戦いが始まった。信玄はすでに中南信地域をほぼ手中に収め、北信濃からさらに越後をもねらわんとする勢いであった。一方の謙信は1560年(永禄3)関東管領(かんれい)に就任したことから、もっぱら北関東へ出兵し、関東管領の名分を守るためにも小田原北条氏と対戦していた。信玄は謙信のこの関東出陣の間隙(かんげき)をついて北信濃へ出兵したのである。この北信濃平野部は、越後・甲斐・上野(こうずけ)を結ぶ交通の結節点にあたり、犀川(さいかわ)を越えれば越後上杉氏の勢力圏に攻め込めるし、信濃川を下って魚沼地方を押さえれば関越の連絡を遮断できるという地域であり、上杉氏が関東へと勢力拡大を図るうえで重要な地域であったので、ついに謙信も信濃へ出兵することになり、両者の対戦が始まった。

 その後、ほぼ1564年(永禄7)までの連年にわたって、両者の対決が行われたが、このうちとくに有名なものは1561年(永禄4)9月10日の対戦である。双方が総力戦を展開し、勝敗が決しかねるほどの激戦となった。俗説では、このときに信玄と謙信の一騎打ちがあったようにいわれているが、その真偽は確かではない。武田方は初め全軍を二つに分け、妻女山(さいにょざん)に布陣している上杉方を一軍が追い立て、別軍が下で挟撃するという「きつつきの戦法」をとった。しかし謙信はいち早くそれを察知し、夜のうちに山を降り、川中島の八幡原(はちまんばら)へ移動し、下で待つ武田方を攻撃した。武田方は苦戦し、副将格の武田信繁(のぶしげ)や山本晴幸(はるゆき)ほかの隊将が戦死した。合戦なかばで武田方の別動隊が戻り、戦況は一変、上杉軍は武田方の追撃を受けて敗退し、両軍とも多数の戦死者を残して帰国した。

 この合戦以後は、信玄がほぼ北信濃まで制圧し、両者の争いは西上野から北関東へと移っていく。しかしこの川中島における長期の対戦は、上洛西上(じょうらくさいじょう)の夢をもっていた上杉・武田両氏にとって、その兵力を消耗させるものであり、織田信長に上洛の先を越される結果となった。

[柴辻俊六]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「川中島の戦い」の意味・わかりやすい解説

川中島の戦い
かわなかじまのたたかい

戦国時代,甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信とが,信濃更級郡の犀川と千曲川との合流点,川中島で天文 22 (1553) 年頃から永禄7 (64) 年頃まで数度にわたって行なった戦いの総称。武田信玄は,本国甲斐より信濃に攻め入り,天文 16年頃から北信の村上義清攻略の軍を起した。同 22年4月,信玄に敗れた村上義清は同年8月,越後に逃れて上杉謙信に頼ったことから謙信対信玄の川中島の戦いが始った。合戦は数多く行われたが,そのうち同 22年8月,弘治1 (55) 年7月,同3年4月,永禄4 (61) 年9月,同7年8月の5度の合戦が明らかである。最も有名なのは,永禄4年9月1日夜から翌2日午後にかけて展開された戦いである。謙信は,8月 14日,1万 3000人余と称する兵を率いて居城春日山城を出発し,北国街道から信濃善光寺平に入り,武田方の高坂昌信の守る海津城の東方妻女山に布陣した。一方,信玄は,同月 18日,2万人余といわれる兵を率いて甲府を出発し,同 24日,川中島をへだてて妻女山を東南にみる茶臼山に布陣した。信玄は,1分隊に妻女山を襲わせ,これによって妻女山を下る謙信を,本陣を含む残る1隊で川中島に迎え討つ策を立て,9月1日夜半これを実行した。一方,謙信は,これより早く妻女山を下り,9月2日未明,川中島に信玄と対戦するにいたった。これは,両軍本陣同士の戦いとなり,謙信みずからが大刀をもって信玄に切りつけたというほどの激戦であった。勝敗は,結局決しなかったが,川中島の地は,以降武田方の領有に帰した。この戦いは,戦国時代最大の激戦といわれ,後世,信玄のとった戦法は「きつつき法」,謙信のそれは「車がかり法」といわれ,江戸時代の軍学に大きな影響を与えた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「川中島の戦い」の解説

川中島の戦い
かわなかじまのたたかい

戦国末期,甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が,北信濃の千曲 (ちくま) ・犀 (さい) 川の合流点川中島(長野県更級郡東北部)で争った戦い
1553年から'64年にかけて前後5回(53,55,57,61,64)交戦。うち'55年・'61年が激戦で,'61年には謙信・信玄の一騎討ちがあったといわれる。勝敗は決しなかったが,川中島は信玄のものになった。

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