甲斐の
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戦国時代に甲斐(かい)の武田信玄(たけだしんげん)と越後(えちご)の長尾景虎(ながおかげとら)(後の上杉謙信(うえすぎけんしん))とが、信州(しんしゅう)川中島(長野市川中島町)で北信濃(きたしなの)の領有をめぐり数度対戦した合戦の総称。合戦は1553年(天文22)から1564年(永禄7)の長期にわたって行われ、おもな対戦だけでも1553年、1555年(弘治1)、1557年、1561年(永禄4)、1564年の5回が数えられるが、もっとも激しい合戦であった1561年9月10日の戦いのみをいう場合もある。
1541年(天文10)6月に家督相続した武田信玄は信濃へ出兵し、ほぼ10年くらいの間に信濃の旧族である小笠原(おがさわら)・村上(むらかみ)・高梨(たかなし)氏らを攻め滅ぼした。敗れた小笠原長清(ながきよ)、村上義清(よしきよ)らは越後の上杉謙信に救援を求め、1553年(天文22)謙信が初めて北信濃へ出兵して両者の戦いが始まった。信玄はすでに中南信地域をほぼ手中に収め、北信濃からさらに越後をもねらわんとする勢いであった。一方の謙信は1560年(永禄3)関東管領(かんれい)に就任したことから、もっぱら北関東へ出兵し、関東管領の名分を守るためにも小田原北条氏と対戦していた。信玄は謙信のこの関東出陣の間隙(かんげき)をついて北信濃へ出兵したのである。この北信濃平野部は、越後・甲斐・上野(こうずけ)を結ぶ交通の結節点にあたり、犀川(さいかわ)を越えれば越後上杉氏の勢力圏に攻め込めるし、信濃川を下って魚沼地方を押さえれば関越の連絡を遮断できるという地域であり、上杉氏が関東へと勢力拡大を図るうえで重要な地域であったので、ついに謙信も信濃へ出兵することになり、両者の対戦が始まった。
その後、ほぼ1564年(永禄7)までの連年にわたって、両者の対決が行われたが、このうちとくに有名なものは1561年(永禄4)9月10日の対戦である。双方が総力戦を展開し、勝敗が決しかねるほどの激戦となった。俗説では、このときに信玄と謙信の一騎打ちがあったようにいわれているが、その真偽は確かではない。武田方は初め全軍を二つに分け、妻女山(さいにょざん)に布陣している上杉方を一軍が追い立て、別軍が下で挟撃するという「きつつきの戦法」をとった。しかし謙信はいち早くそれを察知し、夜のうちに山を降り、川中島の八幡原(はちまんばら)へ移動し、下で待つ武田方を攻撃した。武田方は苦戦し、副将格の武田信繁(のぶしげ)や山本晴幸(はるゆき)ほかの隊将が戦死した。合戦なかばで武田方の別動隊が戻り、戦況は一変、上杉軍は武田方の追撃を受けて敗退し、両軍とも多数の戦死者を残して帰国した。
この合戦以後は、信玄がほぼ北信濃まで制圧し、両者の争いは西上野から北関東へと移っていく。しかしこの川中島における長期の対戦は、上洛西上(じょうらくさいじょう)の夢をもっていた上杉・武田両氏にとって、その兵力を消耗させるものであり、織田信長に上洛の先を越される結果となった。
[柴辻俊六]
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