改訂新版 世界大百科事典 「村上氏」の意味・わかりやすい解説
村上氏 (むらかみうじ)
中世,信濃国更級(さらしな)郡,埴科(はにしな)郡を中心とした地域に勢力を有した武士。清和源氏頼信流の盛清が,信濃国更級郡村上(現,長野県埴科郡坂城町)に住し,その子為国が村上氏を称したことに始まるとされる。12世紀後半,保元・平治の乱および治承・寿永の内乱に際して,基国の名がみえ,鎌倉幕府成立後は御家人となったとされる。しかしこの時期の村上氏については不明な点が多く,村上氏の本領が信濃国であったとする点についても疑問視する考え方がある。村上氏が信濃国の中世史上に現れるのは,南北朝時代末期からで,この時期に村上から千曲川対岸の坂城(さかき)にその根拠地を移したといわれている。以後村上氏は信濃の有力国人として成長した。1400年(応永7)村上満信は,信濃国守護として善光寺(現,長野市)に入った小笠原長秀によって支配地を侵略されようとした。このため満信は信濃国人を糾合して守護使の入部を拒み,大塔(おおとう)(現,長野市篠ノ井)の地で守護軍を破った。
この戦い以後村上氏は信濃国守護と対抗しうる勢力を有し,応仁・文明の乱(1467-77)を経,村上義清の代に至り,戦国大名への道を歩みはじめた。1541年(天文10)義清は小県(ちいさがた)郡の中央に勢力があった海野氏を攻略し,小県郡へ進出した。しかしこの年,武田晴信(信玄)が父信虎を追い,信濃国進攻を開始したため村上氏の所領も不安定なものであった。48年の上田原(うえだはら)の合戦,50年の戸石(といし)城合戦などの局地戦では武田氏に善戦したが,53年本城である葛尾(かつらお)城は落城した。義清は高井郡の高梨氏を経由し,越後長尾氏(上杉氏)に助勢を求め,いったんは葛尾城を奪い返したが,武田氏の勢力の前に支え続けることができず,越後へ落ちのびた。その後上杉氏に従い川中島の戦に参加したことが知られる。82年(天正10)武田氏滅亡後,上杉景勝に従っていた義清の子景国は海津城(現,長野市松代)に城将として駐在したが,所領を信濃国に回復することはなかった。
執筆者:郷道 哲章
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報