デジタル大辞泉
「石川雅望」の意味・読み・例文・類語
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いしかわ‐まさもち【石川雅望】
- 江戸後期の狂歌師、国学者。狂名、宿屋飯盛(やどやのめしもり)。浮世絵師石川豊信の子。家は代々宿屋。狂歌を頭光(つむりひかる)、四方赤良(よものあから)に学んで一家をなし、狂歌四天王の一人と呼ばれた。主著「雅言集覧」「源註余滴」「都の手ぶり」「しみのすみか物語」など。宝暦三~天保元年(一七五三‐一八三〇)
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石川雅望
いしかわまさもち
(1753―1830)
江戸後期の狂歌師、戯作者(げさくしゃ)、国学者。狂名宿屋飯盛(やどやのめしもり)、号六樹園(ろくじゅえん)、五老。江戸・小伝馬町(東京都中央区)で旅籠(はたご)を営み、通称は糠屋(ぬかや)七兵衛。父はかたわら浮世絵師石川豊信(とよのぶ)として名高かった。雅望は学を志して、津村淙庵(そうあん)に和学を、古屋昔陽(せきよう)に漢学を学んだが、狂歌流行とともに四方赤良(よものあから)(蜀山人(しょくさんじん))に入門してたちまち狂歌、狂文に頭角を現した。1784年(天明4)に狂歌本『大木(たいぼく)の生限(はえぎわ)』『太(ふとい)の根(ね)』を編したのを最初に、著述が多く、江戸狂歌の新進として鹿津部真顔(しかつべのまがお)と並称された。しかし1791年(寛政3)家業のことで無実の罪を得、江戸払いとなって近郊に10余年蟄居(ちっきょ)する非運に泣いたが、この間に国学の学殖を深めて、辞書『雅言集覧(がげんしゅうらん)』、注釈書『源注余滴』を著し、また狂文『都の手ぶり』『吾嬬那万里(あづまなまり)』や雅文体の読本(よみほん)『飛騨匠(ひだのたくみ)物語』などを残した。狂歌界は、飯盛の不在中は真顔が独占の形で俳諧歌(はいかいか)と称し、天明(てんめい)期(1781~1789)の狂歌を非難したのに対して、飯盛は1807、1808年(文化4、5)ごろ江戸復帰後の『狂歌百人一首』で反撃して機知と笑いを堅持すべしと主張し、いわゆる俳諧歌を圧倒した。
晩年は霊岸島新湊(しんみなと)町(東京都中央区)に住み、子息塵外楼清澄(じんがいろうきよずみ)とともに職業狂歌師として『万代狂歌集』をはじめ多数の狂歌本を著した。文政(ぶんせい)13年閏(うるう)3月24日没。
歌よみは下手こそよけれあめつちの動き出してはたまるものかは
[浜田義一郎]
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石川雅望
没年:文政13.閏3.24(1830.5.16)
生年:宝暦3.12.14(1754.1.7)
江戸中期から後期にかけての国学者,狂歌師,読本作者。本名は糠屋七兵衛,のちに石川五郎兵衛を名乗った。幼名は清之助。字子相。雅号は六樹園,五老山人などを用い,狂歌名を宿屋飯盛とした。江戸小伝馬町3丁目の旅籠屋糠屋主人,浮世絵師でもあった石川豊信の5男。家業を継ぐ。若くして和学を津村淙庵に学び,古屋昔陽に就いて漢学をも修めた。狂歌の手ほどきを頭光に受けたのち,天明3(1783)年に四方赤良こと大田南畝に入門,以後,天明期江戸狂歌壇の白熱した空気のなかで生来の才を育み,軽妙洒脱を身上とする狂歌を量産した。やがて五側の盟主として,化政期の関東狂歌界に大きな影を落とした。 寛政3(1791)年,39歳で家業に関連した冤罪を得て,江戸払いに処され,成子村,のち内藤新宿へ居を移した。これを機に,和学研究に心血を注ぎ,多くの雅文を創作するようになった。国学の対象は特に『源氏物語』を好み,その考証の成果として,『源氏余滴』や『雅言集覧』をまとめた。文化5(1808)年ごろから文芸界に復帰,9年にはやっと赦免となったが,その間,中国白話小説などを和雅文に翻案した読本数種をものした。『天羽衣』『近江県物語』『しみのすみか物語』『飛騨匠物語』などである。狂歌における生涯のライバル鹿都部真顔と共に,文政11(1828)年に俳諧歌宗匠号を二条家から授与される。<著作>稲田篤信編『石川雅望集』(叢書江戸文庫28巻)<参考文献>粕谷宏紀『石川雅望研究』
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石川雅望 (いしかわまさもち)
生没年:1753-1830(宝暦3-天保1)
江戸後期の国学者,狂歌師,読本作者。浮世絵師石川豊信(覚翁)の子。江戸に生まれる。字は子相。通称糠屋七兵衛,のち中村屋五郎兵衛。号は宿屋飯盛(やどやのめしもり),六樹園,蛾術斎,五老翁,五老山人など。家業は旅籠屋。国学を津村宗庵に,狂歌を頭光(つぶりひかる),四方赤良(よものあから)(大田南畝)に学ぶ。博覧強記。その著《源註余滴》《雅言集覧(がげんしゆうらん)》は国語学史上評価が高い。狂歌師としても著名で頭光,鹿都部真顔(しかつべのまがお),銭屋金埒(ぜにやのきんらつ)とともに狂歌四天王の一人として勢力を張る。《自讃狂歌集》《万代狂歌集》など多くの狂歌集を編んだ。読本にも手を染め《近江県物語》《天羽衣》《飛弾匠物語》《しみのすみか物語》などの作品を発表,読本作者として特殊な位置も占めている。
→狂歌
執筆者:南 啓治
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石川雅望【いしかわまさもち】
江戸後期の国学者,狂歌師。浮世絵師石川豊信の子。狂名宿屋飯盛(やどやのめしもり)。別号六樹園,五老翁など。日本橋小伝馬町の宿屋の主人。罪を得ていったんは江戸払となり,のち復帰。和漢の学を駆使し擬古文,黄表紙も書く。狂歌は四方赤良(よものあから)(大田南畝)門で天明調を主張,鹿都部真顔(しかつべのまがお)と対立。主著に《万代狂歌集》《都の手ぶり》《雅言集覧》《源注余滴》《飛騨匠物語》等。
→関連項目擬古物語
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石川雅望
いしかわまさもち
[生]宝暦3(1753).12.14. 江戸
[没]天保1(1830).閏3.24.
江戸時代後期の国学者,狂歌作者。狂歌名,宿屋飯盛 (やどやのめしもり) 。号,六樹園,五老。日本橋小伝馬町の宿屋の主人。国学はほとんど独学で,『雅言集覧』『源註余滴』などの著書がある。『都の手ぶり』『北里十二時 (ほくりじゅうにとき) 』 (『吉原十二時』) などの雅文,『しみのすみか物語』 (1805) ,『近江県 (おうみあがた) 物語』 (08) などの雅文小説もある。狂歌は四方赤良 (よものあから) 門下で四天王の一人と数えられ,頭角を現すが,寛政3 (1791) 年江戸払いとなり,いったん沈黙。その後文化1 (1804) ~2年頃復帰,当時の流行児鹿都部真顔 (しかつべのまがお) と競い合った。赤良の直系をもって任じ,軽妙な天明狂歌の復活を主張,門人数千と称された。狂歌集に『吾妻曲 (ぶり) 狂歌文庫』 (1786) ,『古今狂歌袋』 (87) ,『絵本天の川』 (87) ,『万代狂歌集』 (1811) などの撰集その他がある。書を沢田東江に学ぶなど当時の典型的文人であった。
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石川雅望 いしかわ-まさもち
1754*-1830 江戸時代中期-後期の狂歌師,国学者。
宝暦3年12月14日生まれ。石川豊信の5男。家は江戸小伝馬町の旅籠(はたご)屋。津村淙庵(そうあん)に国学を,頭光(つむりの-ひかる),大田南畝(なんぽ)に狂歌をまなぶ。のち「源氏物語」などの研究や戯作(げさく)にもうちこみ,おおくの著書をのこした。文政13年閏(うるう)3月24日死去。78歳。字(あざな)は子相。通称は糠屋(ぬかや)七兵衛。号は六樹園,五老山人など。狂号は宿屋飯盛。編著に「万代狂歌集」「雅言集覧」,読み本に「飛弾匠(ひだのたくみ)物語」など。
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石川雅望
いしかわまさもち
1753.12.14~1830.閏3.24
江戸後期の狂歌師・戯作者。狂名は宿屋飯盛(やどやのめしもり)。通称石川五郎兵衛。号は六樹園(ろくじゅえん)・五老(ごろう)など。江戸小伝馬町で旅宿を営む。天明初年から狂歌を詠み,四天王の1人として,版元蔦屋(つたや)重三郎から多くの狂歌書を出版。文化年間(1804~18)天明狂歌を主張して,俳諧歌を唱道した鹿津部真顔(しかつべのまがお)と鋭く対立した。国学者としても知られる才人で,著書「万代狂歌集」「都の手ぶり」「雅言集覧」。
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石川雅望
いしかわまさもち
1753〜1830
江戸後期の国学者・狂歌師
狂名宿屋飯盛 (めしもり) ,号は六樹園。江戸日本橋の宿屋主人。ほとんど独学で国学・漢学などに精通し,博学であった。狂歌は大田南畝 (なんぽ) に師事。化政期(1804〜30)の狂歌四天王の一人に数えられた。主著に『雅言集覧』『源注余滴 (げんちゆうよてき) 』,狂歌『万代狂歌集』など。
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石川雅望 (いしかわまさもち)
生年月日:1753年12月14日
江戸時代中期;後期の国学者;狂歌師;読本作者
1830年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の石川雅望の言及
【雅言集覧】より
…[石川雅望](まさもち)が編した古語索引ともいうべき辞書。〈い〉~〈か〉の6冊を1826年(文政9),〈よ〉~〈な〉の3冊を49年(嘉永2)刊行。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」