幕末の代表的洋学者。名は虔儒(けんじゅ)、字(あざな)は紫川(しせん)で、阮甫は通称。寛政(かんせい)11年9月7日(新暦10月5日)、津山藩医箕作貞固(1759―1802)の三男として生まれる。初め漢方を学んだが、江戸に出て宇田川榛斎(しんさい)(玄真)につき蘭学(らんがく)を学んだ。1839年(天保10)には幕府の天文台の蕃書和解(ばんしょわげ)御用手伝にあげられ、1855年2月(安政元年12月)の日露和親条約などの外交交渉にも携わった。同年新設の蕃書調所出役教授職に任ぜられ、1863年2月(文久2年12月)には幕臣にあげられたが、同年8月1日(文久3年6月17日)に死去した。1858年(安政5)開設の種痘所(東京大学医学部の最前身)の設立発起人にもなった。医学中心であった蘭学は、阮甫の段階で、自然科学、人文科学を包括する洋学に発展した。阮甫の3人の娘はいずれも蘭方医、洋学者と結婚し、その孫、曽孫(そうそん)には、箕作麟祥(りんしょう)、菊池大麓(だいろく)、箕作佳吉、元八、呉秀三(くれしゅうぞう)、坪井誠太郎ら各分野における日本の代表的学者が輩出した。
[岡田靖雄]
『呉秀三著『箕作阮甫』復刻版(1971・思文閣)』▽『蘭学資料研究会編『箕作阮甫の研究』(1978・思文閣出版)』
(石山洋)
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幕末の蘭学者。名は虔儒(けんじゆ),字は庠西(しようせい),号は阮甫のほか紫川,逢谷。津山藩医箕作貞固(丈庵)の子。1815年(文化12)京都で吉益文輔に漢方医学を学び,22年(文政5)津山藩医となる。翌年,藩主に随行して江戸に出て,儒学を古賀侗庵に,蘭学を宇田川榛斎に学ぶ。39年(天保10)幕府天文方蛮書和解御用となり,翻訳にあたる。ロシア,アメリカの外交使節と応接。56年(安政3)蕃書調所設立に関し,初代教授となる。62年(文久2)幕臣に列せられる。訳著は《外科必読》,《医療正始》(伊東玄朴名義),日本で最初に刊行された医学雑誌といわれる《泰西名医彙講》《種痘略観》などの医学関係のほか,《八紘通誌》《八紘勝覧》《泰西大事策》《極西史影》《西史外伝》などの地理,歴史を中心に多数あり,《星学》《地質弁証》《海上砲術全書》《水蒸船説略》《日本風俗備考》《和蘭文典》など天文地学,兵器,電信,語学など広い分野にわたる。
なお,津山藩医で,維新後の教育指導者である箕作秋坪,《新製輿地全図》《坤輿図識》を編訳した地理学者箕作省吾(1821-47)は,ともに阮甫の婿養子である。
執筆者:有坂 隆道+西川 治
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1799.9.7~1863.6.17
江戸後期の蘭学者。名は虔儒(けんじゅ),字は痒西(しょうせい),通称が阮甫,号は紫川・逢谷など。美作国津山藩医の家に生まれる。吉益(よします)文輔に漢方を,宇田川玄真(げんしん)に蘭方を学ぶ。江戸で開業したが火災に遭い,以後翻訳に専念。1839年(天保10)幕府天文方蛮書和解御用(ばんしょわげごよう)の局に迎えられ,外交文書の翻訳にあたる。56年(安政3)蕃書調所教授に任命され,同所の基礎を固めた。「八紘通誌」「泰西名医彙講」など訳書多数。
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…佐久間象山は,西洋の自然科学の〈窮理〉(物理を究める)に基づく有用の学を実学となし,横井小楠の実学は,仁と利,すなわち道徳性と功利性とを統合しようとするものであった。また箕作阮甫(みつくりげんぽ),杉田成卿ら洋学系の学者は,実験,実証に基づいた洋学こそ実学であると主張し,明治維新後の実学観へとつながった。 明治以降となると,江戸期の学問はすべて空理を論ずる虚学とみなし,江戸末期の和魂洋才論的な発想の実学者たちが,あくまで儒学の優位性を主張したのに対して,西洋の政治,経済,哲学,軍事学をそれに代わるものとした。…
…そこでこれに対処するため洋学校の設立を図り,55年(安政2)に古賀増を洋学所頭取に任命し,翌年2月に洋学所を蕃書調所と改称,九段坂下の旗本屋敷を改修して校舎にあて,同年7月に開所,翌57年1月から開講した。教官の陣容は教授職2名で,箕作阮甫(みつくりげんぽ)(津山藩医)と杉田成卿が任命され,教授手伝に川本幸民(三田藩医),高畠五郎(徳島藩医),松木弘安(薩摩藩医)ら6名,ほかに句読教授3名が任命されたが,その後逐次補充増員されて幕末に及んだ。教官ははじめ陪臣が大部分であったから,彼らはいつ主家から呼び戻されるかわからず,そこで幕府は主要な洋学者を直参に登用することにし,62年(文久2)に箕作阮甫と川本幸民を直参に取り立てたのをはじめ次々と直参に登用している。…
※「箕作阮甫」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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