1920年代のパリを中心に活躍した洋画家。東京美術学校(現東京芸大)卒業後、渡仏してピカソやモディリアニらと交友をした。乳白色の裸婦画は「藤田の白」と絶賛され、エコール・ド・パリの代表的画家として知られる。第2次世界大戦中に戦意高揚のため「アッツ島玉砕」など数々の戦争画を描いたとして戦後に戦争責任を問われ離日。55年にフランス国籍を取得し、再び日本の土を踏むことなく68年に81歳で死去した。
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洋画家。陸軍軍医藤田嗣章の末子として東京に生まれる。中学校時代に暁星の夜間部でフランス語を学ぶ。1905年東京美術学校西洋画科に入学。同級生に,後年,漫画家となる岡本一平や近藤浩一路(こういちろ)(1884-1962)らがいた。卒業後,和田英作の壁画制作の助手をつとめるが,他方で文展にも出品,3年連続して落選する。当時藤島武二や有島生馬ら洋画家たちの渡仏や帰国が相次ぎ,ひそかに期するところがあって13年フランスへ赴く。パリで川島理一郎と共同生活をはじめた直後に第1次大戦が勃発。戦争前後のつらい時期にモディリアニ,ピカソ,ザッキンらを知る。19年のサロン・ドートンヌに出品した6点すべてが入選。翌年の同展にも後にキスリングのモデルとなるキキの裸婦像を出品。乳白色の絵肌に,面相筆による墨色で輪郭線をとり,数多くの裸婦や猫,あるいは室内風景を描き,その細密描法によって一躍名をあげ,21年には同展審査員となった。
数々の奇行と言動も加わって,エコール・ド・パリの寵児となるが,この時期にひとつの個性的な様式を確立させた藤田の芸術的価値に注目すべきである。西欧絵画の移植過程においてのみ考察されている近代日本の洋画史のなかで,独自の画風を確立させたことのみならず,後年,日本画壇と決別する際に残した〈国際的水準に達することを祈る〉という言葉に,藤田の,日本の美術界の閉鎖性を打破しようと努力した開拓者としての一面をみることができる。26年には2人の裸婦を描いた《友情》がフランス政府の買上げとなり,またパリの大学都市,日本館のサロンを飾った大装飾画などの制作というように,1920年代の藤田は文字どおりエコール・ド・パリの一人として脚光を浴びる。29年一時期日本に戻ってから,30年にまたパリに帰り,その後,北米,中南米各地を旅行して制作。33年から49年まで日本に滞在(1939-40年に一時期パリ滞在),精力的に個展を開き,二科展にも毎年出品,日本滞在中で注目されるのは,大阪十合(そごう)百貨店や京都日仏会館などの壁画制作である。とりわけ《秋田年中行事太平山三吉神社祭礼の図》(1937)は,桃山・江戸初期の障壁画や風俗屛風の技法を取り入れた最大のものである。
1938年海軍省嘱託として中国に派遣され,以後,仏印(フランス領インドシナ)やマレー半島などをまわって数多くの戦争画を描き,聖戦美術展,大東亜戦争従軍画展などに出品。戦争画は記録性を重視するところから,それまでの画風と異なる重厚なマチエールを駆使した迫真的な描写の作品となっている。43年には《シンガポール最後の日》その他の仕事で朝日文化賞を受賞。藤田の卓抜な描写力で記録した戦争画は,70年にアメリカから77作家155点の作品といっしょに返還された後は,東京国立近代美術館に収蔵されている。画家の戦争協力という批判を一身に受けて,敗戦後の1949年,藤田はアメリカ経由でパリに赴く。55年にはフランス国籍を取り,59年には夫人とともにカトリックの洗礼を受ける。レオナルド・フジタと改名し,日本芸術院会員を辞任。宗教画に取材した作品を描き,66年にはランスのノートル・ダム・ド・ラ・ペ礼拝堂の設計とステンド・グラス,フレスコ壁画の制作に没頭。毀誉褒貶のなかで情熱的に生きた画家藤田の掉尾(とうび)を飾るにふさわしい仕事である。フランスに約20年間を過ごし,68年1月29日スイスのチューリヒで死去。《巴里の横顔》《腕一本》《地を泳ぐ》などの自己の体験に即したエッセー集がある。
執筆者:酒井 忠康
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洋画家。明治19年11月27日東京生まれ。のちに陸軍軍医総監となる嗣章(つぐあきら)の次男で、4人姉弟の末子。母方の従兄弟(いとこ)に小山内薫(おさないかおる)がいる。1910年(明治43)東京美術学校西洋画科を卒業。白馬会展、東京勧業博覧会に出品し、13年(大正2)フランスに渡り、モディリアニ、スーチンらと知り合う。17年と翌年パリのシェロン画廊で個展を開き、19年サロン・ドートンヌに6点出品、その年のうちに会員に推され、21年には審査員となる。滑らかな乳白色の画(え)肌に面相筆で線描した裸体画などに、西洋人にはまねできない独創性を発揮し、輝かしい名声を得てエコール・ド・パリの一員となる。23年サロン・デ・チュイルリー会員、26年サロン・ナシヨナル・デ・ボザールの審査員となるほか、帝展にも作品を送り、審査員にあげられた。25年レジオン・ドヌール勲章を受ける。29年(昭和4)帰国し、東京で個展を開き、翌年パリに戻る。この年ニューヨークに渡り個展を開き、滞在。南米諸国、メキシコ、アメリカを巡遊して、33年ふたたび帰国し、翌年二科会会員となった。
1939年アメリカ経由でパリに戻るが、翌年戦火を避けて帰国。41年には二科会を辞して帝国芸術院会員となり、戦争記録画制作のためたびたび従軍。その業績により昭和17年度朝日文化賞を受ける。第二次世界大戦後、49年(昭和24)離日し、ニューヨーク滞在ののち翌年パリに着く。ペトリデス画廊でたびたび個展を開き、55年フランス国籍を得る。58年ベルギー王室アカデミー会員に推挙され、翌年カトリックに改宗してレオナール・フジタとなる。晩年は宗教的主題の制作が多い。66年ランスにノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂が完成、この設計からステンドグラス、フレスコ壁画を手がけた。昭和43年1月29日チューリヒの病院で癌(がん)により死去。代表作は『巴里(パリ)風景』『我が室内』『五人の裸婦』『猫』『カフェにて』ほか。秋田市に大壁画『秋田の行事』をはじめ、彼の作品を多数所蔵する平野政吉(ひらのまさきち)美術館がある。
[小倉忠夫]
『『藤田嗣治画集 1949~68』(1978・日動出版部)』▽『藤田嗣治著『地を泳ぐ』『腕(ぶら)1本』(1984・講談社)』▽『土門拳写真、柳亮他文『猫と女とモンパルナス 藤田嗣治』(1968・ノーベル書房)』
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大正・昭和期の洋画家
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(尾崎眞人)
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