出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
洋画家。陸軍軍医藤田嗣章の末子として東京に生まれる。中学校時代に暁星の夜間部でフランス語を学ぶ。1905年東京美術学校西洋画科に入学。同級生に,後年,漫画家となる岡本一平や近藤浩一路(こういちろ)(1884-1962)らがいた。卒業後,和田英作の壁画制作の助手をつとめるが,他方で文展にも出品,3年連続して落選する。当時藤島武二や有島生馬ら洋画家たちの渡仏や帰国が相次ぎ,ひそかに期するところがあって13年フランスへ赴く。パリで川島理一郎と共同生活をはじめた直後に第1次大戦が勃発。戦争前後のつらい時期にモディリアニ,ピカソ,ザッキンらを知る。19年のサロン・ドートンヌに出品した6点すべてが入選。翌年の同展にも後にキスリングのモデルとなるキキの裸婦像を出品。乳白色の絵肌に,面相筆による墨色で輪郭線をとり,数多くの裸婦や猫,あるいは室内風景を描き,その細密描法によって一躍名をあげ,21年には同展審査員となった。
数々の奇行と言動も加わって,エコール・ド・パリの寵児となるが,この時期にひとつの個性的な様式を確立させた藤田の芸術的価値に注目すべきである。西欧絵画の移植過程においてのみ考察されている近代日本の洋画史のなかで,独自の画風を確立させたことのみならず,後年,日本画壇と決別する際に残した〈国際的水準に達することを祈る〉という言葉に,藤田の,日本の美術界の閉鎖性を打破しようと努力した開拓者としての一面をみることができる。26年には2人の裸婦を描いた《友情》がフランス政府の買上げとなり,またパリの大学都市,日本館のサロンを飾った大装飾画などの制作というように,1920年代の藤田は文字どおりエコール・ド・パリの一人として脚光を浴びる。29年一時期日本に戻ってから,30年にまたパリに帰り,その後,北米,中南米各地を旅行して制作。33年から49年まで日本に滞在(1939-40年に一時期パリ滞在),精力的に個展を開き,二科展にも毎年出品,日本滞在中で注目されるのは,大阪十合(そごう)百貨店や京都日仏会館などの壁画制作である。とりわけ《秋田年中行事太平山三吉神社祭礼の図》(1937)は,桃山・江戸初期の障壁画や風俗屛風の技法を取り入れた最大のものである。
1938年海軍省嘱託として中国に派遣され,以後,仏印(フランス領インドシナ)やマレー半島などをまわって数多くの戦争画を描き,聖戦美術展,大東亜戦争従軍画展などに出品。戦争画は記録性を重視するところから,それまでの画風と異なる重厚なマチエールを駆使した迫真的な描写の作品となっている。43年には《シンガポール最後の日》その他の仕事で朝日文化賞を受賞。藤田の卓抜な描写力で記録した戦争画は,70年にアメリカから77作家155点の作品といっしょに返還された後は,東京国立近代美術館に収蔵されている。画家の戦争協力という批判を一身に受けて,敗戦後の1949年,藤田はアメリカ経由でパリに赴く。55年にはフランス国籍を取り,59年には夫人とともにカトリックの洗礼を受ける。レオナルド・フジタと改名し,日本芸術院会員を辞任。宗教画に取材した作品を描き,66年にはランスのノートル・ダム・ド・ラ・ペ礼拝堂の設計とステンド・グラス,フレスコ壁画の制作に没頭。毀誉褒貶のなかで情熱的に生きた画家藤田の掉尾(とうび)を飾るにふさわしい仕事である。フランスに約20年間を過ごし,68年1月29日スイスのチューリヒで死去。《巴里の横顔》《腕一本》《地を泳ぐ》などの自己の体験に即したエッセー集がある。
執筆者:酒井 忠康
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(尾崎眞人)
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