デジタル大辞泉
「西山宗因」の意味・読み・例文・類語
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にしやま‐そういん【西山宗因】
- 江戸前期の連歌師、俳人。談林俳諧の祖。通称、次郎作。名は豊一(とよかず)。梅翁と称す。肥後国(熊本県)八代の人。はじめ武士、のち、主家改易のため浪人。京に上り里村昌琢の指導をうけ、四三歳のとき、大坂天満宮の連歌所宗匠となる。俳諧も貞門の重頼などの影響で早くから親しんだが、寛文末年から延宝初年にかけて、宗因の自由で斬新な俳諧のもとに結集した人々で「談林俳諧」の一派をひらき、これが全国に流行。しかし晩年は俳諧から遠ざかり、再び連歌に熱意を示した。著「西翁十百韻」「西山宗因釈教俳諧」「宗因五百句」など。慶長一〇~天和二年(一六〇五‐八二)
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西山宗因
没年:天和2.3.28(1682.5.5)
生年:慶長10(1605)
江戸前期の連歌師,俳人。通称次郎作,名豊一。俳名一幽,西翁,梅翁など。号長松軒など。肥後熊本加藤家家臣西山次郎左衛門の子。加藤家家老八代城代加藤正方の小姓に転じて連歌を愛好する正方の感化を受け,連歌師としての道をたどり始めたのは15歳ごろである。京の里村昌琢の指導を受けられるよう勤務上の配慮を与えたのも正方で,宗因の正方に対する尊崇の念は生涯続いた。また公務で正方に供奉するうちに各地の連歌会に出席し,作品を残し始める。しかし寛永9(1632)年に加藤家が改易処分を受けたため,宗因の人生は一変した。浪人として生計を立てる必要から,上京して里村昌琢の庇護を受け,昌琢の導きによって京の連歌会に出席,また江戸の武家連歌壇とも接触を持って次第に重きを成すに至る。 正保4(1647)年には大坂天満宮連歌所宗匠として迎えられ,本格的に連歌師としての活動を開始する。慶安2(1649)年には天満宮月次連歌再興,5年には菅家神退七百五十年万句を興行するなど,機運にも恵まれて宗因の活躍はめざましく,全国各地の大名にも門人を持つなど,広汎な名声を得る。内藤風虎との交渉など,その最たるものであろう。有力門人の招きを受けて全国に出向くことしばしばで,紀行も数編残している。寛文期以降,宗因の関心は俳諧にも向けられて作品を多数残すようになる。談林俳諧の創始者として貞門俳諧側からの攻撃を受けたこと,門下に井原西鶴を擁したことなどがあまりにも有名であるが,彼があくまで連歌師として自らを規定しており,俳諧は全くの余技に過ぎなかったことは確認されなければならない。著作は連歌,俳諧,紀行などにわたっておびただしく,全集の編纂が切望されている。<参考文献>野間光辰『談林叢談』,島津忠夫「宗因とその後の西山家」(『近世文芸』58号)
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西山宗因
にしやまそういん
[生]慶長10(1605).肥後
[没]天和2(1682).3.28. 京都?
江戸時代前期の俳人,連歌作者。名,豊一。通称,次郎作。別号,一幽,西翁,梅翁,西山翁,野梅子,長松斎,忘吾斎,向栄庵,有芳庵。肥後八代城主加藤正方の家臣で,連歌を里村昌琢に学んだ。主家改易後浪人として京都に出,正方が広島浅野家にお預けになるまで仕えた。正保4 (1647) 年長らく中絶していた大坂天満宮の連歌所宗匠となり,その経営に尽力し,諸侯や富商の支持を受けた。一方貞門の古風にあきたらない俳人たちに擁されて,延宝期には新風談林の棟梁となったが,延宝末年には談林末流の放縦乱雑に愛想をつかして連歌に帰った。俳諧に『宗因千句』 (73) ,『天満千句』 (76) ,『宗因七百韻』 (77) ,『宗因発句帳』,素外編『梅翁宗因発句集』 (81) ,連歌に『伏見千句』 (57) ,『小倉千句』 (65) ,『浜宮千句』 (78) ,『延宝千句』 (79) ,『風庵懐旧千句』 (79) ,紀行に『津山紀行』 (53) ,『松島一見記』 (63) ,『西国道日記』 (65) などがある。
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西山宗因 にしやま-そういん
1605-1682 江戸時代前期の連歌師,俳人。
慶長10年生まれ。肥後(熊本県)八代(やつしろ)城代加藤正方の小姓としてつかえ,京都で里村昌琢(しょうたく)に連歌をまなぶ。主家改易により浪人し,正保(しょうほ)4年大坂天満宮の連歌所宗匠となる。また俳諧(はいかい)に関心をよせ,軽妙な句風の談林俳諧を大成,貞門派を圧倒した。天和(てんな)2年3月28日死去。78歳。肥後出身。名は豊一。通称は次郎作。俳号は一幽など。連歌に「伏見千句」,俳諧に「蚊柱(かばしらの)百句」など。
【格言など】世の中よ蝶々とまれかくもあれ(「小町躍(おどり)」)
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西山宗因
にしやまそういん
1605〜82
江戸前期の連歌・俳諧師。談林派の始祖
名は豊一 (とよかず) 。号は西翁・梅翁。もと肥後(熊本県)八代 (やつしろ) 藩士。16歳のころから京にのぼり連歌を学んだ。主家没落後上京し,里村昌琢 (しようたく) らに師事し修業に励み,のち宗匠(師匠)となった。晩年は古風な貞門派を排して,自由・軽妙・清新な談林派俳諧をおこした。その句風は著書『宗因千句』『談林(西翁)十百韻 (とつぴやくいん) 』などで知ることができる。
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世界大百科事典(旧版)内の西山宗因の言及
【宗因】より
…70年(寛文10)法雲禅師のもとで出家,連歌所宗匠の地位を一子宗春に譲ってからは,いよいよ俳諧に熱中した。彼の俳風は,万治期からの独吟百韻を集めた《宗因千句》に早くも顕在化するごとく,和歌・謡曲などの文句の奇抜なパロディ,句調の軽妙さ,付合(つけあい)の飛躍的展開などにおいて,おのずから貞門古風へのアンチテーゼをなしたため,貞門からは〈[軽口](かるくち)〉〈守武(もりたけ)流〉など異端者呼ばわりされ,《西山宗因蚊柱百句(かばしらのひやつく)》(1674)に対して論難書《しぶうちわ》(1674)が出されたりした一方,貞門風にあきたらず新風を模索していた大坂の西鶴・惟中,京の高政,江戸の松意・桃青(芭蕉)など気鋭の新人たちから熱狂的支持を受け,談林派の盟主にまつりあげられた。《西山宗因釈教俳諧》(1674),《宗因五百句》(1674),《宗因七百韻》(1677)など,宗因の名を冠した俳書が続々刊行されたのは,その声望の表れである。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」